2列王記2章

2章 エリヤからエリシャへ
<要約>
おはようございます。人はそれぞれ神の召しに応じて生きるところがあるものです。自分に対する神の召しを確かにし、その召しに忠実に生きていく。しかししばしばそれは、途方に暮れるような思いを抱く内容を持つものであったりします。だからこそ神に願い求め、神の助けを願う歩みが必要ということもあるでしょう。エリシャの必死さは、神の召しに生きようとした証です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1. エリヤの最期
神はエリヤを天に引き上げようとされた。創世記に、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」(5:24)とあるが、エリヤの最期も似ている。果たして自分がどのような最期を飾るのか、全く見当もつかないが、もし、今あるままに、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」と誰もが納得する生涯を送ることができたら、それは幸いである。聖書が語るように、確かに神の国の存在を明らかにするような生涯は、それ自体価値がある。神を信じるクリスチャン以外、誰がそんな人生を送ることができるだろうか。
2.別れの旅
自分の最期の日を知ったエリヤは、神が導かれるままに、各地の預言者たちを訪問した。エリシャは、その旅に強引に同行する。エリシャはヨルダン渓谷アベル・メホラの出身である。家は裕福な農家であったが、その生活と仕事を捨て去り、エリヤの弟子となっていた。エリシャは、主人が天に凱旋するのを見届けるのみならず、最後の格別の祝福を得たいと思ったのだろう。ベテル、エリコへと進むエリヤに付き従った。
 いずれもイスラエル人にとって思い出深い地である。ベテルでは、アブラハムとヤコブが祭壇を築き、契約を結んでいる。神の祝福の契約に信頼を寄せた場所である。エリコは約束の地カナンでの初戦の地。難攻不落の城壁は信仰による戦いで崩すことができた。ヨルダン川は、古い時代への決別であり、新しい時代の始まりを象徴する。信仰によってイスラエルはヨルダン川を渡った。実際のところこの旅は、エリヤのためではなく、エリシャのためであったのだろう。つまり、イスラエルの歴史を踏みゆくことで、信仰の歩みは、神の祝福を信頼し、これを積極的に受け止め、求めていく歩みであることを教えられているのである。それは、神に求め、信頼することが全てだ、とエリシャに教える旅であった。後ろ向きの人間に信仰の報いはない。エリシャもまた前向きに求め、食らいついているのが印象的である。
 別れの時、エリヤはエリシャを振り向き「何をして欲しいのか」と問う。彼は即座に、エリヤの二倍の霊の力を求めた。イスラエルには、相続権のある長子は二倍の分け前を得る定めがある(申命21:17)。つまり、エリシャは、恩師に勝ろうと野心を抱いたわけではない。エリヤの正統な後継者であることを求めたのである。
3.後継者エリシャ
しかし、エリヤはどんな確かな約束もせず、去って行く。というのも、働きに召してくださるのは神だからだ。神の働きは、神のお墨付きで、神の任命によって出て行くものである。エリシャが自ら神と向かい合い、神の恵みに与らなくてはならないことであった。
 エリシャはひとり神に向かい、自身の召しを確かめようとする。エリシャはエリヤと同じように外套をヨルダン川の水に打ちつけた。そして水は別れた。神は確かにエリシャにエリヤと同じ信仰の力をお与えになった。大切な点である。彼は神の力を知らされ、それらが働くことを聞き知っていただけではない。むしろ自らその力に与る者となった。エリシャは、エリヤの後を継いで、まさに神の力に生きたのである。その後、エリコ(水のきよめ)の事件、ベテル(熊)の事件と、エリシャがエリヤの正統な後継者として認められる出来事が続いてゆく。私たちも、聖書が語ることを知っているだけではなく、聖書の力を実際に味わいながら歩むことが大切である。そのためには、ヤコブが神の祝福に食らいついたように、ヨシュアが神に信頼し神の祝福を勝ち取ったように、そしてエリシャが、エリヤを離れようとせず、付きまとってその実を得たように、今日も、神の衣の裾に触れるかのように、神を求め、信頼して歩みませていただこう。

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