2列王記8章

8章 エリシャのその他のエピソード
<要約>
おはようございます。試練にあっては、心がくじけ、なすべきことがあっても、物事は進まないと初めから諦め落胆しているのが、私たちの現実です。手の内にはまだまだ切り札があると考えるべきでしょう。恵の神、復活の神を信じているのですし、イエスに免じて物事を考えられる神がおられるのですから。神を信頼して、一歩物事を踏み出してみたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.シュネムの女の第二のエピソード
シュネムの女が再び出てくる。ゲハジが出て来るので、ゲハジが重い皮膚病になる以前の出来事として考えるのが自然のようである。つまり、時間的な順序からすれば5章のナアマンのエピソードは、この8章のエピソードの後に起こったこと、だということだ。そして「王」ということばが繰り返しでてくるが、その正体は明らかにされていない。なぜか、気になる所で、この王は、エリシャのことをあまりよくわかっていない。本来ベン・ハダデやハザエルと同時代の王となれば、ヨラムのはずだが、エリシャを知らないので、彼ではない。どうやらエフーと見るのがよいようだ。
さて、シュネムの女のエピソードに戻るが、エリシャは、神の人として、自分を支えてくれる女に、色々と気遣いをしている。この女は、そんなエリシャの気遣いを、必要とせず、ただ神の人エリシャを支えることに満足を感じているような人であった。だからエリシャのそんな心遣いはありがたくも、不要であったのだ。しかし、エリシャは、只で物事を受けることのできない人、モノを貰いなれていない、不器用な人間と言うべきなのだろう。彼はこの女に特別な配慮をするのである。しかしそれはエリシャが狙ったような結果にはならないものであった。というのも、初めは、子のないこの女、子を産む恵みに与り、大喜びをしたが(4:11-37)、やがてその子を思いがけない形で失ってしまうことになる。しかしその苦渋の中で、神のよみがえりのいのちの恵みに与ることになる。エリシャが狙った効果ではない効果、それに優る神の恵に与ったわけだ。それによって彼女の信仰の歩みはさらに強くされた。エリシャは余計なお世話をしたようでありながら、実は、神の人を認めて施すこの女には、一層深い神の恵みに与る機会を提供することになった。めでたしめでたし、ということなのだが、これは信仰を持っているのでなければ、わからない恵でもある。
さて今日の箇所では、彼女を襲った二度目の不幸、つまり彼女が神の人の言葉に従った結果、財産を失ったことへの彼女の対応が描かれている。大切な点である。私たちには、神に仕え、神の宮に奉仕をし、神のことばに従うことで、祝福どころか、苦難に巻き込まれていくことがあったりするものである。小さなことだが、神様なんて信じなければよかった、神様を信じたばかりにこんなつまらぬ苦労を背負って、と思うことは、誰にでもあることだろう。私にもそのようなことはある。世間様から見れば小さなこと、そんな程度のことと思われるかもしれないが、その事柄の故に、私は、今自分が幸せとは思えない、こんな問題を抱え込んでしまって、ということは、あるものだろう。しかも真面目に神を信じたばかりに、ということが。
2.シュネムの女の信仰
けれども、このシュネムの女は、エリシャの余計なお世話を通して、神は善きお方であり、神は決して、私たちを失望落胆の淵に放置されたままにされることはない、と学んだ人である。だから彼女は、二度目の不幸について、へたり込むのではなく、当時としては、当たり前にすべき手続きとして、王に当然の権利を訴えにいき、それを受け入れられていくのである。しばしば人は、自分を不幸と思うと、どんどん後ろ向きになり、結果、通常の解決手段すら、思いつかないで、落胆していることがあったりするものだ。しかし、恵の神がいるのだし、復活の命を与えられる神がいるのだから、物事そんなに簡単に落胆してはいけないし、諦めてはならない。むしろできることがあれば、なすべき、というべきだろう。
雨が良き人にも悪しき人にも振り注ぐように、失望落胆も全ての人に平等に起こるものである。しかし神を信じている者に対する、神の恵みは尽きないと言うべきだ。シュネムの女は、神の人を守る人生を歩んだが、神もまた、彼女の人生を守るように、働いてくださった。私たちもこの事実を受け止めて、全てを相働かせて益としてくださる神を信頼し、歩まなくてはならない。パウロは言う。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益をしてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)。
しばしば、私たちの人生には、試練と思えるようなことが幾度も襲いくる可能性がある。なぜ神はこのような試練の道を通らされるのか、私たちには全くわからないと思われることがあるものだが、大切なことは、待ち望むことである。黙し、心を腐らせずに、神の導きを見ていくことである。そうすれば点と点が結びついて、神の素晴らしい計画に納得させられることが起きて来るのである。
3.ダビデに免じて
アラムの王、ベン・ハダデの死の経緯が記録される。これも先のエリシャの行ったすばらしいことの続きと理解される内容である。15節、王は、ハザエルに暗殺されたような印象がある。通常はそのように理解するが、これは「彼」という代名詞を「ハザエル」と解釈するものであって、実際には事故であった可能性もないわけではない。
16節からは、ユダの王の記録であり、ヨラムについて触れる。ヨラムと言えば、イスラエル北王国にも同じ名前の王がいるので、混同しやすいところだが、ここは、ユダの王の記録なので、アハブの子ヨラムではなく、ヨシャパテの子ヨラムのことを言っている。彼はユダの南王国の伝統に反して、イスラエルの北王国の伝統に倣う道に歩んだ。しかし、「主は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった」とある(19節)。神が私たちを滅ぼされないのは、まさにイエスに免じてであることを思わされるところである。神はダビデとの契約に忠実であられた。同じように、イエスとの契約にも忠実であられ、私たちに祝福を注いでくださる。
私たちは、不誠実であり不敬虔な者であるが、主は真実である。主は、イエスの十字架の契約に忠実であり、私たちを見捨てられることはない。だから私たちがイエスの十字架を信頼するなら、神の恵みを自分のものとし、神と共に歩むことができる。ということは、私たちにどんな災いが、たびたびふりかかろうと、シェネムの女のように、神が私たちを回復させ、私たちを幸せに導いてくださることを信じなくてはならない。私たちが神に背くことがあっても、神は私たちを滅ぼすことを望まれない。神は契約に忠実なお方だからである。だから悔い改め、神の御前にへりくだるならば、神は私たちを回復させてくださる。私たちが誠実さの中に歩んで災いを被ることがあっても、私たちは滅びるようには定められていない。神を信頼し、十字架を高くかかげ、神に人生を導いていただくよう祈ることが大切なのである。

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