マルコの福音書5章

ゲラサまたはガダラ(写本に混乱がある)の地に、汚れた霊に取り付かれた人がいた。彼の特徴をマルコは二つに要約する。一つは、もはや鎖を持ってしても、誰も彼をコントロールできなかったということ。そして二つめには、「夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」(5節)とあるように、もはや自分で自分をコントロールすることもできなかったことである。彼はどうにもならない自分に苦しんでいたのである。なんと不幸な姿であろうか。人間が自分で自分を制御しえない苦しみ、マルコは、彼が一つや7つの霊ではなく大勢の悪霊に悩まされていたと語る。彼は悪霊的に取り憑かれていたのではないが、サタンの支配のもとに意のままにされていたのである。それは程度の差はあれ多くの人間の現実に近い。そしてマルコはその解決はイエスにある、と語るのである。事実私たちにも自分が悪魔的になると悩まされ、いかんともしがたい、何もなしえないと思われる状況があるものだろう。そんな時に、聖書は究極的な解決、イエスの力による解決があると言う。ちなみにマルコは病人と悪霊につかれた人を区別している。
これは十二年の間長血をわずらっていた女の例、と死んだヤイロの娘の例でさらに強調される。十二年の間、長血をわずらっていた女は、自分の病の癒しを求めてさ迷っていた。そして多くの医者からひどい目に合わされ、自分の持ち物を皆使い果たしていた。自分にはどうすることもできない状況にあって、ますます追い詰められていくことが人生にはある。そこで、この女は最後の願いをイエスにかけるのである。イエスに触れば、癒されるかもしれない、イエスに対する信仰を燃やすことで、この女は、究極の解決を得た。実に彼女の信仰の確かさはわずかの接触にその期待の全てを託したところである。信じようと頑張る行為は求められていない、知的な同意でもない、むしろ全ては神にかかっていると認め、神の業を当然のごとく待ち望む人格的信頼、あるいは身内的な愛の依存が求められている。そして注意すべきは、イエスはこの賞賛すべき彼女の信仰を自分で告白するように導かれたことである。まさに山の上にある町は隠れることができないものなのだ。
ヤイロの娘の話しも同様である。イエスがヤイロの求めに応じて、ヤイロの家に到着した時には、ヤイロの娘は病気ですでに亡くなっていた。誰もが失意と悲しみの中にあった。もうどうすることもできない、遅すぎたという状況があった。しかし、人間が絶望するときこそがまさに神の機会である。イエスはヤイロの娘を死から呼び戻した。ヤイロの娘は生き返った。ここで、イエスはまことにご自身がいのちと死の主であることを示されている。
イエスのもとに来るならば、いかなる人間的な手段でも解決しえないことが解決される、そのようにマルコは述べていく。これをどう受け止めていくか。昔物語として読み流すこともできるだろう。しかし、それはやはり信ずべき、神の力を仰ぐべき物語として読み受け止めるべきものだろう。
助けを求めてくる人に対して、私にはあなたを助けることはできない。しかし、あなたを助けてくださる神がいる、ということは言いうるのである。その問題のために、多くの人々にひどい仕打ちを受け、何もかも失うような人に対して、その悲しみに共感し、その問題の解決は、私にではない神にあると語ることができる。

マルコは、イエスについて、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(1:1)と語り始めた。2章では、「人の子」という言い方をしている。それは、イエスが好んで用いた、救い主を指す称号である。政治的な救い主というよりも、霊的な救い主という意味が強調される。そして、悪霊を追い出し、病を癒し、死を打ち壊すイエスに、マルコは、「いと高き神の子」という称号を与えている。万物の支配者であるイエスを意識することばだろう。イエスにとって、大きすぎる問題はなく、手におえない傷もない。知恵や力が足りなく克服しえないものは何もない。いと高き神の子は、この私にも「恐れないでただ信じていなさい」(36節)と語ってくださることを覚えて、歩ませていただくこととしよう。

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