1歴代誌10章

10章 サウルの死と礼拝の民

<要約>

おはようございます。今日は、福井県に出かけます。明日のPBAラリーで、如鷲教会と福井自由キリスト教会でメッセージをする予定でいます。どんな出会いがあるか、楽しみです。さて、今日の箇所は、サウルの生涯を振り返り、神の民がどのような信仰の伝統に立つべきかを教えられるところでしょう。神を認め、神を心を尽くして求めていく、そのように今日も歩ませていただきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.サウルの生涯

長い系図が9章でひとまず終了し、いよいよ歴史的な記述が始まるのであるが、その最初にサウルの死がとりあげられる。サウルの生涯についてはこの章のみで、続けて著者は、ダビデの生涯(11章)へと筆を進めていく。

まず、サウル王の歩みは、1サムエル13-31に詳しいが、そのポイントを振り返るなら、まず、ペリシテ人との戦いにおいて、サムエルの指示を待ちきれず、いけにえをささげてしまった、越権行為がある(13:8-14)。また、アマレク人との戦いにおいて、聖絶すべきものをせずに家畜の最上のものを隠し残した罪があった(15:7-31)。さらに、神が後継者として立てたダビデを妬み、ダビデを殺そうと容赦なく追跡した執念深さの記録がある(24:1-22)。そして、神の忌み嫌われる霊媒の女を使って、死んだサムエルの霊を呼び寄せ、九死に一生を得ようとしたが、本章に記録された結末を迎えている。1歴代誌の著者は、このサウルの生涯の要点を振り返るのではなく、最後の結末となったエピソードのみ書き記し、サウルの生涯について、「主の信頼を裏切った不信の罪のゆえに死んだ。彼は主の言葉を守らず、霊媒に伺いを立てることまでして、主に尋ねることをしなかった。」(13,14節)とまとめている。サウルは、神に対して不忠実であり、不信仰であった、だから彼は退けられたのだ、と。

2.サウル王の生涯を思い起こす意義

申命記において、エジプトを脱出したイスラエルに対して、神は、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6:5)と命じている。だが、サウルは、そうではなかった。サウルは、主の存在を認めず、主を信じなかったのである。そのような意味で、1歴代誌の著者が書かなかったサウルの人生がどのようなものであったかを思い起こす必要がある。彼がどのように主の言葉を守らなかったのかを理解することだ。サウルは明らかに主のことばに敵対したわけではない。彼は目に見えない神を認められなかったのである。だからサムエルの到着が遅れて、人心が離れ、軍の士気を立て直すために何かをしなければならないという状況に置かれた時も、神に求めようとはしなかった。彼を信頼し、彼に王位を与えられた神の存在を認めようとしなかったのである。それは彼の根本的な問題であった。だから彼がペリシテの軍に責められ、窮地に陥り、自分を超えた力を必要とした時に、彼は、神ではない霊媒に頼ることで対処しようとした。彼は神を認めない人々と同じ手段に訴えてしまったのである。

3.神を認め礼拝する

神の存在も神のみこころも、しばしば簡単に知ることはできなかったりするものだが、神が自らそれを明かされる時がある。まさにパウロが宣教の目的地に散々迷ってトロアスに着いた夜、マケドニアの夢を見たように、神が自らみこころを明かす時がある。迷い悩みながらも、神のみこころに付き従う歩みが大事にされなくてはならないのである

ともあれ、サウルが主に逆らい不信の罪を犯した時に、「主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された」(14節)。つまり、ここでは礼拝の特権がどのような者に与えられるのか、その重要な原則が描かれている。10章は単に、ダビデの記録につなげる序論でも、捕囚を余儀なくされた状況の回想でもない。申命記が、エジプトの中からイスラエルを選び聖別された記録であるとすれば、1歴代誌は、イスラエルの中からの真のイスラエル、つまり礼拝する民を選ばれたことの記録である。そしてこれは、私たち自身に適用しうる意味を持っている。実に礼拝は、主のことばをまもり、主だけを仰ぎ、主に尋ねる民によって執り行われる。主を心から愛し、礼拝に招かれ、その特権に与る者であろう。

 

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