1歴代誌13章

13章 契約の箱

<要約>

おはようございます。聖書を漠然と読まず、並行箇所がある場合には、その順序性、用語の違いに注意しながら読みたいものです。新約聖書の福音書においては特にそうですが、旧約聖書においては、サムエル記・列王記と歴代誌の違いには注意しなくてはなりません。そのような読みの注意深さが、また聖書のメッセージの豊かさを理解させることになります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.契約の箱の記事の位置づけ

契約の箱は、十戒が彫られた二枚の石を納めたもので、生ける神の臨在とモーセの契約を象徴するものであった。それはおそらくネブカデネザルによるエルサレム崩壊の時に、壊され、1歴代誌が書かれた時代には、すでに失われていたと考えられているが、著者は敢えてこれを取り上げ礼拝の再建に当たって中心的なものとして描いている。

というのも、2サムエル記5章と6章の同じ記事とを比較すると、1歴代誌の著者は、出来事の順序を入れ替えているのは明らかである。2サムエル記では、戦勝の記事が先に来て(5:11-25)、契約の箱の記事(6章)は後と、事の順序が逆になっている。時間的に正しい順序は、サムエル記の記述の方であると言われ、1歴代誌の方は、まず神を求め、神の契約を優先する姿勢を大事にすることが、人生の勝利につながる、という霊的な原則を教えるためにその順序を変えた、と考えられている。実際、こうした書き方のパターンが、アビヤ(2歴代13章)、ヨシャパテ(2歴代17-20章)、ヒゼキヤ(2歴代29-32章)の記事においても繰り返されており、契約の箱を全くもって無視し、神を求めなかった王サウルと対比されるのである(13:3)。

そのような意味では、2サムエル記と歴代誌では、明らかな用語の違い、イメージの違いがある。たとえば、歴代誌でよく使われるのは「全イスラエル」(5,6,8節)であり、すべての民による行為が強調される。また、「権威主義的な王」ではなく「合議を求める民主的な王」である(2歴代1:2、20:21、30:2,32:3、対比2歴代10:6-14、25:16-17)。さらに神を求め、神に頼ることが、王の模範として描かれる。

2.神の箱の意義

6節からは、エルサレムの西、約13キロのキルヤテ・エアリムに放置されていた神の箱を運び上る記事になるが、ここでの最も深い霊的な教えは、私たちにとって理解しがたい、当然と思われるウザの行為が、ことのほか厳しく神に罰せられた点がそうである。だが、二つの結果、いわゆるウザに主が怒りを発せられたこと、そして、ガテ人、つまりペリシテ人が神の箱のゆえに祝福されたことは、ダビデのみならず、読者が神をどう理解すべきであったかを教えている。

神の箱は「ケルビムに坐しておられる主」と呼ばれた。それは神の臨在を象徴するものであった。しかし、彼らはその神の箱を実に不適切な方法で運んだ(1サムエル6:7)。つまり、ダビデは、神を求めながらも、「この方を定めのとおりに求めなかった」(15:13)とあるように、独りよがりの求め方をしていたのである。

神礼拝も、神が示された方法があるのであり、神の御言葉に対する不注意が、私たちを裁くことになる。礼拝の再建もまず神の定めをよく知らなくてはならない。それは神の言葉を離れて、何かを参考に、熱心、厳粛、丁重に行えばよいというものではない。それは、神の言葉を中心とするものである。まさにそれは、後のエズラの礼拝改革において典型的にみられるものである。彼らは、神のみおしえの書を繰り返し読み、それを中心に礼拝の儀としたのである。

また、サムエル記では、神の箱がペリシテ人に災いをもたらしているが(1サムエル5、6章)、ここでは祝福をもたらすものとして描かれている。興味深いことは、1歴代誌の著者は、ダビデ王のメンツを気にせず、彼の神に対する無知をそのまま描いていることだ。つまりダビデは、契約の箱がもたらしかねない危険を感じて、ならばそれがペリシテ人に向くように放置した。しかし事態は逆であり、神の箱は、オベデ・エドムの家族全部、さらにその未来の子孫まで祝福するのである(26:5)。ダビデは神の聖さも、神の哀れみ深さも全く理解していなかったのである。神は、全イスラエルの神であるのみならず、異邦の民の神である。礼拝はあらゆる人々、民族への祝福の場として提供される。

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