2歴代誌3章

3章 悔い改めの土台と、神殿の構造

<要約>

おはようございます。神殿は、神が臨在し、神に近づける場であり、当時のイスラエル人は、その恵みを豊かに味ったことがわかります。ならば、今日の教会においてもそれは同じことが言えるでしょう。人ではなく、神に満たされる場として教会は開かれていることを覚えなくてはなりません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神殿が建てられた場所

ソロモンは神殿建設に着手した。列王記の並行箇所との比較で言えば、その記事は短く、神殿建設そのものにはあまり重きがないのだろう。むしろ、歴代誌の著者の関心は、ソロモンが幕屋を建設したモーセと同じように、神に解き明かされた計画に忠実な作業を行ったこと、そして、建て上げられた神殿が、モーセが作った簡易式聖所(幕屋)の完成版であったこと、つまり永遠の主の安息の場となったことを示すことにある。だから、1節、その場所は、「主がその父ダビデにご自身を現された所、すなわちエルサレムのモリヤの山上」(1節)であった、と書き始めている。そこは、かつて、アブラハムがイサクを献げた場所なのであり、神殿は、神がご自身をあらわされる場所、常しえまでも、イスラエルにその御臨在を示される場所なのである。

ただ注意すべきは、歴代誌の著者は、ただ神の御臨在を示すことにあるのではない、神が「アブラハム」ではなく「父ダビデ」にご自身を現されたと語り、神の臨在がどんな意味を持ったかを理解させようとしている。アブラハムは従順のゆえに、そこで神と出会い、神の祝福を受けたのであるが、ダビデはそうではない。ダビデはそこで、罪を犯し、悔い改めの祭壇を築いたのである。イスラエルの記念すべき壮大な神殿は、父ダビデの悔い改めの場所に建てられた、というのが重要である。

2.神の憐みの場としての神殿

神殿は、悔い改めに対して慰め深くあわれみ深い神がおられるところである。アブラハムの神は全能の神であり、従順な者に備えられる神であった。しかしダビデの神は、同じように恵み豊かな神であっても、砕かれた悔いた心を持った者にあわれみ深い神なのである。空っぽの手掌ではなく、空っぽの心を持って神の前に出る者を、深く満たしてくださるお方なのである。

重要なポイントである。教会で、神に対する信仰を表明しながら、実際には、神ではないもの、牧師や信徒、つまり人にこそ満たしを求める人は多い。そして思うような反応が得られなければ、優しくしてくれない、愛してくれない、と批判的な雰囲気も生じることがある。教会の中で、そのようなことが大事そうに語られ始めたら、それは、もはや教会ではない。教会には教会でなければ味わえないものがある。つまり神のあわれみとめぐみの力に触れることが、何よりも大事にされなくてはならないのだ。

かつてイスラエルの民が、神の御前にでて、「あなたの御前には喜びが満ち」(詩篇27:4-6)と語ったことを過小評価してはいけない。神に近付くことを許され、そのようにできることは、実に素晴らしい恵みだったのである。彼らはそこで人から何かを受けることはなかった。むしろ、彼らは神の現実を肌身で感じたことは重要である。

しかし一方で、神殿の構造は、神のその恵みに近付くのは容易なことではなかったことも暗に示している。実際、神殿に入ることができたのは祭司とレビ人のみであり、イスラエルの一般の民は、至聖所を決して見ることはできなかった。至聖所は、大祭司が年に一度の贖いの日にのみ、入ることが許されたのみである。

こうして神の臨在は誰の目にも明らかになり、神に近付くことも許されたのであるが、それは中途半端な形であった。ザアカイが木の上からイエスを覗き込んでいたようなものである。しかし、主イエスは、その垣根を一瞬にして取り去り、ご自身の血によって、神に近付くことを許し、「降りてきなさい。今日はあなたの家に行って共に食事をすることにしている」と神の交わりの深さへと導いてくださっているのである。そうであればこそ、教会では、神によって満たされることをこそ、ますます求めなくてはならない、ということだろう。

3.時間をかけて完成する

2節、ソロモンは、第四年、第二の月の第二日に、神殿建設を開始した。神殿建設の工期は7年、とすれば、ソロモンは約3年間を準備のために設けたことになる。神殿建設は非常に静かに、また計画通りになされたことが知られている。恐らく、人材や資材が準備され、入念な設計や施工プランがなされるのに、それだけ時間をかけた、ということなのだろう。

実に単純明快なことが言える。捕囚帰還の民は、全てに時間がかかることを改めて考えさせられたはずだ。良い仕事には、それなりに隠された下準備の期間も必要である、と。

信仰の成長も、教会の成長も同じである。教会は建物ではなく、人の集まりなのですから、ましてそうだろう。人は一夜にして育つものではない。気づきが与えられ、動機づけられ、備えられて、動き出し、試行錯誤し、そして育っていく。

4.天上の礼拝を意識した神殿の造り

4節以降は、神殿の各部分の寸法や構造を記録している。しかし、これはあくまでも概略だ。キュビトは、肘から中指の先までの長さ、約44.5センチとされるが、ソロモンの時代は、51.9センチともう少し長いものであった。石造りを基本構造とし、東向きの玄関、大きく至聖所と聖所の二つの部分からなり、神殿を飾ったケルビムの像、彫刻、刺繍は皆天上の礼拝を意識して作られたものであった。礼拝は、まことに神の前にあってなされるものだからだ。

大切なのは、礼拝は、まことに神の前にあってなされるものだ、ということだ。まことに優れて力ある、恵みとあわれみに富んでおられる主を覚えてなされるものだ。そしてその期待は決して裏切られることはない。あなたも神のみことばに掛けて、10年、神とよき時を過ごすことに共に打ち込んでみようではないか。10年心から礼拝をささげるために、教会に来て、神に近付くなら、あなたの10年後の歩みも、ただ今の歩みを続けるのとで雲泥の差となることだろう。

 

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