2歴代誌16章

16章 アサの変心とハナニの献身

<要約>

おはようございます。信仰の歩みは、二歩前進、三歩後退というべきものです。遅々と進まず、また、その熱心さもいつも高められているというわけではないでしょう。罪ある人間なのですから、私たちはいつもそのような問題と背中合わせです。大切なのは、みことばに励まされて、日々、信仰の熱心さを新たに、燃やしていただくことでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.聖書の矛盾表記

アサの治世第36年に、イスラエルの王バシャがユダに攻めのぼったとある。しかし、これはありえない。バシャは、アサの治世の第26年には既に死んでいるからだ(1列王15:33,16:8)。ただ、これが歴史的事実であったことは、1列王記の著者も認めている(15:16-23)。しばしば聖書には、こうした数値上の矛盾は出て来る。それは、写本が作成された際に誤りが混入したのか、表記上の矛盾について未だ説得力のある結論は出ていない。このような問題については、矛盾を矛盾として小脇に抱えておくことがよいのだろう。

というのも、私の確信からすれば聖書は誤りのない神のことばであることに間違いはない。それは、主イエスが聖書を神のことばとして受け止めていたからであり、イエスの完全な神性を信じているのであれば、その方が語ったことについて、それ以上のことも、それ以下のことも言うことは許されない、と思うからである。聖書は、その内容のみならず、形式(文書化)においても、神によって摂理的に定められたものである。イエス・キリストの二性一人格と同じ性質を持つもので、人間的な要素と神的な要素が有機的に分割できない形で結合しているのが特徴である。また啓示は歴史的なものである。イエス・キリストは実際の歴史上の人物であり、受肉も特定の時間と場所で起こっている。それを伝達するために人間の言語という形式が用いられている。そこに誤りは起こりえなかった、と言える。

そして実際の表記上の矛盾については、問答無用と、目をつぶっているわけではなく、探求する科学者のように、鉛筆書きにとどめる態度を保持するのがよいのではないか。全てが明らかになるときは来るはずで、聖書からもっと中心的に語るべきものが多くあり、人間の活動の時間も限られている状況の中で、かつての福音派が経験した不毛かつ痛ましい論争をわざわざ引き起こす必要はない、と思うのである。

2.アサ王の変心

さて16章においてはアサ王の変心に注目される。かつて彼は、「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません」(14:11)と素晴らしい信仰を表明したが、その信仰の歩みは続かなかった。晩年、イスラエル北王国の侵攻に際しては、その危機を切り抜けるため、神ではないアラムの国に助けを求めている。そこで予見者ハナニが遣わされ、なぜかつてのように神に拠り頼まなかったのか、もし拠り頼めば、かつてと同じように神の業を見ただろう(8節)と警告されている始末である。しかもアサ王は、ハナニのことばに怒りを発し、彼の足に足かせをかけ、さらには、民を踏みにじっている。「足かせをかける」は、原文では「足かせの家に入れる」である。また「踏みにじる」は「しいたげた」とも訳される。ハナニを拘束し囚人とし、ハナニに共鳴する者たちを苦しめたのだろう。

これまでユダの歴史の中で、イスラエルの予見者がこのように不当に扱われたことはなかった。これは予見者受難の始まりとなる。著者は、アサ王の変心の理由については、説明していないが、信仰的な熱心さを持続することの難しさは、よく理解されることだ。たとえそれが長年積み重ねられてきたものであっても、信仰は一夜にして崩れ去ることがある。ノアが、大洪水の後に失敗したように(創世記9:20-23)、アブラハムが、同じ失敗を繰り返したように(創世記12:10)、また、モーセが晩年に、怒りをコントロールできなかったように(民数記20)、いつでも人はそのような失敗を犯す罪人である現実を忘れてはいけない。まさに「立っていると思う者は、倒れないようにしなさい」(1コリント10:12)とあるとおりである。

3.信仰の熱心さを保つ

大切なのは、ハナニが言うように、「主はその御目をもってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全くひとつになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(9節)という事実だ。「見渡し」は、決して見逃すまいとする、探るような目の動きを思わせることばである。いつでも神は、ご自身と心が全く一つになっている者を探し、ご自身の力をあらわそうとしておられる。となれば、私たちの側に神の目に留まるような信仰の熱心さが維持されているかどうかが問題である。

歴代誌の著者が捕囚後の民に意図して語りかけていることは、主を求めるのみならず、主を求め続ける、ことである。霊に燃え主に仕える、信仰の熱心さを保ち続けることにある。確かに、レビ人は、生活苦のためにエルサレムから立ち去って、農地を求めてその仕事を捨てている状況があった。彼らは再び神の奉仕へとネヘミヤによって呼び出されなければならなかった(ネヘミヤ12、13章)。彼らは、主への再献身を促されているのである。信仰の熱心さを保つことは、私たちの課題でもある。15章で述べたように、忍耐を持って時間をかけ、積み重ねて、完成させる熱心さを持ち続けることだ。

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