2歴代誌17章

17章 ヨシャファテとアハブ

<要約>

おはようございます。今日からヨシャファテ王について見ていきます。歴代誌の著者は、21章まで約5章にわたって彼の歩みを取り上げます。列王記では簡単に書き流されているヨシャファテを念入りに取り上げるところに著者の意図があると言えるでしょう。17章はその序論というべきもので、その意図が早くも現れるところです。つまり彼は、自ら神のみことばに心を定め教えられるのみならず、これを徹底して教える王として描かれているのです。神のみ言葉を中心とする歩み、これが捕囚期後のイスラエル人に求められていることであり、今日の私たちも同じです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.理想的な王ヨシャファテ

歴代誌と列王記ではしばしば王に対する評価が異なることがある。そこに著者の意図があることに注意する必要がある。そのような意味で、列王記では、ヨシャファテは、イスラエル北王国の歴史の流れに付随して出てくる程度にしか描かれていないが、歴代誌では、多くのページが費やされ、高い評価が下されているのが特徴である。そこに著者の意図があることは確かなのである。では、その意図は何か。

彼は、「父の神に求め、その命令に従って歩み、イスラエルのしわざにならわなかった」(4節)。また、「彼の心は主の道にいよいよ励み」(6節)、「彼は、ユダの町々で教えさせ、すなわち、主の律法の書を携えていき、ユダのすべての町々を巡回して、民の間で教えた。」(7-9節)。自ら聖書に学ぶだけではなく、聖書を民に教えた。その働きのために、つかさたち、そしてレビ人を用いている。レビ人の役割に特別な関心と力を注いでいることに注目される。ヨシャファテは、イスラエルの王として期待される歩みをしたのみならず、ユダ南王国を、神の民の国として整えることに、意を注いだのである。彼はまさに一般的な意味ではなく、神の民の国イスラエルの王として期待された歩みをしたのであり(申命記17:19)、その意義はこれから王国を再建しようとしている捕囚期後の読者に繰り返されなくてはならなかったのである。その結果、ヨシャファテは、詩篇1:1-3に語られた約束どおりに「何をしても栄え」た、とされる(5節)。

大切なのは、自分の思いからではなく、神のみこころから私たちの人生が形作られていくことである。神あるがゆえに、我神を信じる、神が命じられるが故に、我かく歩む、と常に神のみこころを意識して歩むことだ。神の臨在が明確でない限り、そのような歩みは難しい。6節「いよいよ励み」の原意は「高くなる」である。主の道にあってその心はいよいよ高くなる、つまり、ヨシャファテは、心を決めて神に従おうとしたのであり、誰の目にも、主に従う心がはっきりとわかるような歩みをした、というのだろう。

確かに、信仰を持つことは、その人の生き方のかじ取りが変わることで、付け足しではない。信仰が個人的生活、家庭生活、社会生活の基礎となり土台となり、信仰を軸に人生の在り方が再編されていくことだ。誰が見ても、あの人の人生は、神を中心に再構成されている、と認めざるを得ない歩みがされていくことだ。当然そこには、堅く信仰の歩みを守る姿勢が必要で、その堅さを作っていくための戦いと、「みずから進んで主に身をささげる」霊的熱心さが必要なのである。

2.神のみ言葉の教育

さてヨシャファテは、神の御言葉の教育を重んじた。つかさたち(7節)、レビ人(8節)、祭司(8節を「主の律法の書」が(9節)教える目的で派遣された。神のことばが、国民の生活している場へと持ち込まれたのである。その結果として、平和が創り出され(10節)、富が築かれ(11節)、軍事力が増強された(17:12-19)。

「主の律法の書を携えて、町々を巡回して、民の間で教える」それは、聖書のことばに神の民が親しんでいくように教育されたことを意味している。これは捕囚時代後のイスラエルにおいて起こった極めて重要な動きである。それまでレビ記に教えられていた神殿祭儀が中心のイスラエルの宗教文化は、もはや、神のみ言葉の教育を中心とするものへと変化していたのである。それは、今日にも通じることである。教会で求められることはまず、聖書が読まれるか、語られるかである。派手さはなくても、地道に、聖書が読まれていく、分かち合われ、それが喜びとされていく教会は、神のみこころにかなう教会である。そしてその聖書を携えて、巡回し、民の間で教える、つまり家庭集会が形作られ、信徒の生活の場でみ言葉の教育がなされていく、そのためのリーダーが育てられていく、これは、非常に今日的なことと言えるだろう。

私たちの決断の根拠、行動の判断基準は聖書にある。私たちがあれかこれかと迷った時に、私たちが指標とするのはやはり神のことばであり、私たちがどう考えて良いかわからぬときに、聞くべきは神のことばである。徹底して聖書主義に立つヨシャファテの歩みに教えられて、神の祝福を自分のものとしたいところであろう。

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