2歴代誌28章

28章 アハズの不従順

<要約>

おはようございます。振り子が右、左と振れるように、ユダ南王国の指導者の信仰の姿勢は、揺らぎます。そのたびに、ユダ南王国の景観は変化していきます。真の神を信じる歩みは、実に神の光に照らされる、真夏の空のように冴え切ったものでしょう。光の子として真に神に応答する歩みをさせていただきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.アハズの信仰の姿勢

アハズの父ヨタムは主の目にかなうことを行う忠実な信仰者であった。祖父であるウジヤも、ツァラアトに冒され、主に従うべき教訓を残しているが、そのような環境に育ちながらも、アハズは、信仰を継承することはなかった。アハズは、「イスラエルの王たちの道に歩みバアルのために鋳物の像を作った」(2節)。ベン・ヒノムの谷は、モレク礼拝、つまり、子どもを神にささげる慣行が行われたところである。子どもが火傷することなく火の中を通過するきよめの儀式とも、また、子どもが犠牲動物と同じように、生きたまま火で焼かれて、偶像にささげられたとも考えられている。それはモーセの律法では厳重に禁じられた行為であった(レビ18:21,20:1-5)。しかし歴史的には、ソロモンがこのための祭壇を築いたのが最初で(1列王11:7)、その後イスラエル北王国では習慣的に行われた。後にヨシヤ王が、この祭壇を破壊しているが(2列王23:10)、いつしか復活し、捕囚期に至るまでその悪習は続いている(エレミヤ7:29-34)。余計なことかもしれないが、知恵者と呼ばれたソロモンがモレク礼拝を導入した最初の人物であった点を考えると、彼の評価されうる知恵は、まさに神に与えていただいたものであって、ソロモン自身が知恵者であったわけではない、と思わされるところである。謙虚に神に求め続けなければ、人は、受け入れがたい知恵に生きるようになる。

ともあれ、これまでの流れからすれば、歴代誌の著者は、滅びに向かう民(27:2)の先頭を走る王を描いていることに注目される。国民が堕落し、それに輪をかけて王が堕落するならば、救いようがない。アハズの父ヨタムはユダの滅亡に歯止めをかけようとしたが、その子アハズはユダの滅亡を加速させてしまった。

2.アハズへの神の裁き

神はこのようなユダを裁かれた。アラムとイスラエルの連合軍によって、ユダが蹂躙された様子が描かれている(5-8節)。またエドム(17節)、ペリシテ(18節)とあらゆる国に攻められている。

ただ、神はイスラエルの同胞が、ユダ南王国の者を捕虜にすることを許されなかった。そのエピソード(9-15節)が、実に奇妙である。つまり純粋な信仰共同体を象徴するユダに対して、堕落の象徴となるイスラエルの姿が逆転しているのである。彼らはいたって良心的で、神の言葉を恐れる者たちとして描かれている。イスラエルは、預言者オデデの忠告を素直に受け入れ、自分たちの罪過にもう一つの罪を加えることのないようにしているのだ。レマルヤの子ペカは悪王とされたが、その王のもとにあるエフライム族のかしらたちには、預言者のことばに従う信仰的、良心的な民族として描かれている。つまり堕落しているはずのイスラエルが、逆に良いと見えるほどに、ユダは、民も王も堕落したという書き方である。

3.アハズのさらなる背信

19節、主が「ユダの王アハズのゆえにユダを低くされた」というのは、単に王の良しあしが国の運命を決したというよりも、すでに堕落の一途を辿る民たちに王が歯止めをかけることができなかった、ということなのだろう。アハズは、とうとう人間的なものを頼み始めた。アッシリヤに助けを求めたが、それは返って自分の首を絞め、悩ますものとなった。さらに、ダマスコとの戦争に負けると、その神々を拝むようになり、主の宮を閉鎖し(24節)、エルサレムのすべての「まち角」に異教の宮を立てた。彼は、自らの敗北がアラムの神々によるものではなく、彼の神、主によるものであることを一貫して認めなかったのだ。こうして再びエルサレムは、異教の様相を呈するようになった。

アハズの混迷ぶりが描かれている。捕囚後の礼拝再建を目指す民に求められたことは、民一人一人の神に対する応答と従順である。イスラエルの王ではなく軍勢が、預言者のことばに応答したように、私たち一人一人が、指導者の姿勢とは別に神に応答することである。あるいは指導者自らがしっかりと神に応答することである。

アハズの治世は悲しい最期をもって閉じられている。彼は王族の墓から離れた場所に埋葬されてしまった。そこに神の裁きがある。礼拝再建は、指導者と民が一つになり、心から主に応答することによって達成される。皆で真の応答を形作る者となりたい。

29章 ヒゼキヤの宗教改革

ヒゼキヤの宗教改革の記録であるが、ここに、私たちが、どのように神に立ち返るべきかが教えられている。

第一に、主と契約を結ぶことだ(10節)。アブラハムもダビデも皆、主と契約を結び人生を始めている。神との関係を明確にし、人生を再スタートすることである。アブラハムは、祝福の契約を神と直接交わしたが(創世記12章)、私たちは、キリストにおいてそれを交わすのである。つまり、十字架にある罪の赦しを自分のものとし、神の特別なあわれみのもと、新しい人生と祝福が許されていること信じる信仰に立つことだ(ヘブル8:13)。バプテスマはそのしるしである。そして聖餐式は、その確認の時となる。神の前に罪から離れ、悔い改め、主との契約を更新することに、ためらっていてはならない。いつでも自分が主から離れていると思う時には、悔い改めて、キリストのもとに集い、主の契約を確認し、その契約に立つことが大切なのだ。

そして第二に、自分の祭壇と宮を聖めることだ。ヒゼキヤの時代、神殿の玄関は閉じられ、ともしびの火も消され、香をたかれることも、全焼のいけにえがささげられることもなかった(7節)。同じように、自分自身の礼拝に向かう足はとどめられ、聖書も閉じられて棚に眠り、祈りの香もたかれず、神への献げ物もなされないことが、あるだろう。しかし、主と契約を交わしたのなら、私たちは、自分の主をしっかり認めなくてはならない。神を主とし、神に従い、神に栄光を帰す人生をしっかり歩むことだ。そのために、閉じられた門を開き、祭壇を聖め、あなた自身の祈りといけにえをささげるのである。教会に足を向け、聖書を開き、みことばに従う決心を新たにし、神にいよいよ祈り、心からの悔い改めとささげものを携えて神に近づけ!それが求められていることになる。

第三に、神に身をささげ、感謝と賛美のささげものを携えて歩むことだ(31節)。ヒゼキヤの宗教改革は、新しさを求めてなされたものであるが、契約の更新にしろ、身の聖別にしろ、感謝と賛美のささげものにしろ、新しいものは何もない。大切なのは、神にしっかり結びつく再スタートを切ることだろう。人を見て信仰生活をし、教会生活をすることからは卒業しなくてはならない。もっと大人になって、人がどうであれ神と結びついて信仰生活、教会生活ができていくことが大切なのである。人を見ているようでは、信仰は深まらない。信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見上げ、イエスにのみ従う、そのような歩みをしなくては、信仰の高嶺に踏み進むことはできない。山登りもいよいよ高嶺に近づき難所にさしかかれば、足取りに注意しつつも、目標の山頂を見上げながら一歩一歩と足を先に進めて行くのと似ている。信仰も上級になればなるほど、山頂を目指してただ一人、上へ上へと進むようになる。ただ主をのみ仰ぎ、主の導かれる高嶺へと、一歩一歩確実に足を踏み進めていくようになる。いつまでも皆と一緒という発想からは脱皮していこう。そして確実に、信仰の完成を目指して歩ませていただきたいものだ。

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