2歴代誌30章

30章 過ぎ越しの祭の回復

<要約>

おはようございます。ヒゼキヤが行った過ぎ越しの祭りが詳しく記されています。これまでの王様は、主の前に道を正しくしたという記述でしたが、その中身が、詳しく描かれていくと言ってよいのでしょう。主の前に道を正しくするというのは、やはり信仰者としての新しい歩みを進めていくことであり、それは、過ぎ越し、十字架を出発点とするものです。十字架による聖め、一致、従順、そして喜びがその中心です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.過ぎ越しの祭りへの招き

ヒゼキヤは全イスラエルとユダに使いを遣わし、過ぎ越しのいけにえをささげるよう呼びかけた、とある。しかし、この時代、イスラエル北王国は既に滅ぼされていた。だから、全イスラエルというのは、イスラエル北王国の生き残りの者たちへの呼びかけであったと考えることができる。

一方ユダ南王国は、アッシリヤとエジプトの脅威の中で生き残りをかけていた時代である。神のみこころにかなわぬ歩みの歴史に、もうこの先もなし、といよいよ切迫感が高まっていた。ヒゼキヤは、これまでのユダ南王国の歩みに楔を打ち込み、新しい国家の歩みを導くために、過ぎ越しの祭りへ国民を動員していく。

2.過ぎ越しの祭りの実施

さていざ、ヒゼキヤがそのように、過ぎ越しの祭りをイスラエルに回復させようとしたところ、第一の月にそれを実施するには準備が整わなかったようである。つまり、指導者が熱心さをもって、声をかけても、付いてくる者はわずかだ、という事態が生じた。また、ヒゼキヤの熱心に反して、ヒゼキヤの使者たちに対する応答は、決して期待するようなものではなかった。ことにイスラエル北王国の残りの民は、「彼らを物笑いにし、あざけった」(10節)と言う。彼らは国を失ったのは、自分たちの不信のためである、という現実を認めることができないでいた。けれども、「ある人々はへりくだって、エルサレムに上ってきた」。

こうしてヒゼキヤは、第一の月に祝いを実行することはできなかったが、民数9:1-14に記されているとおり、第二の月の14日にそれを行うことができた。指導者の熱心さによって、過ぎ越しは実施されたのである。

しかし、さらに式典を始めてみると、それは聖書に記されているのとは異なったやり方で、実行されていく。過ぎ越しは1週間ではなく2週間にわたって実施され(23節)、参加者の中には性別していない者たちも含まれた(17-20節)。これは、過去の儀式の進め方に精通している者がいなかったためなのだろう。ちょうどダビデが、神の箱を正式な運び方をせず、ウザが打たれたように、彼らも、神の怒りを受ける状況にあった。けれどもヒゼキヤが、そのために祈ったところ、神は民をいやされたという。やり方はどうであれ、遜った民の気持ちを受け止めようとする神の愛が描かれている。

3.過ぎ越しの祭りの意義

しかしなぜヒゼキヤは、過ぎ越しの回復に拘ったのだろうか。いや、なぜ歴代誌の著者は、考古学的な成果として認められているヒゼキヤの水道など、ヒゼキヤの政治的な業績を記さず、このような過ぎ越しの回復のエピソードを記そうとしたのか。大切なのは、彼が、このエピソードを捕囚帰還後の民に対する、礼拝の回復の教えとしたことである。

つまりそもそも過ぎ越しは、神の救出の記念である。ヒゼキヤは、イスラエルの真の回復を求めるにあたり、イスラエルの歴史的経験に訴えた。アッシリヤに連れ去られ、奴隷とされたイスラエルの回復を、エジプトから民を引き出した神の業に期待した。いや、アッシリヤの脅威にさらされ、追い詰められる状況の中で、エジプトではない、近隣諸国の弱小連合でもない、まさに、救い出される神にこそ期待する信仰を明らかにしたのである。それは捕囚帰還後の民にとっても、やがて完全な独立を勝ち取り、主の民の国としての再興を願う思いにマッチしたことだろう。そして過ぎ越しは、民族としての始まりを記念するものであった、全イスラエルにとってそれは、神との新しい交わりの中で、新しい統治の開始を全国民が意識するふさわしい行為であったのだ。こうして主に熱心な主の民であることを促すエピソードが読まれたのである。

だからその過ぎ越しの祭りは、具体的にいくつかの要点を大事にするものとして、なされていく。聖別を大事にした(15,24節)。十字架の血潮による聖めがまさにそうである。また全会衆が関わるものとされた(2、4、23-25節)。皆で心ひとつになって礼拝をささげるのである。また、「しるされているとおりに」(5節)、「主のことばのとおりに」(12節)ということばに注目される。それは、聖書的であることを求める中で進められた(16,26節)。そして最終的に主に期待する喜びを中心に据えるものであった(21,23,25-26節)。それは、エズラ、ネヘミヤ時代の礼拝の特徴にもよく表れている。私たちの礼拝もまた、聖別、全会衆、聖書的、喜び、こうした点に注意し、もはや、神に背を向けるのではない、神に向かい、主に期待する新しい一歩を踏み出すこととしよう。

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