2歴代誌31章

31章 通常の礼拝の回復

<要約>

おはようございます。今日の箇所は、教会の十一献金についての考え方を学ぶところでしょう。日本人の信仰は、感謝と祈願が特徴で、献身、献金というものに欠落している、と言われるところがあります。やはり、信仰を持つということが、どこか、神の恩に報いる(神はそんなケチな方ではありませんが)、そのような礼節を持ったものでありたいものです。それは一種の信仰の美学ですね。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.真の神はただお一人

過ぎ越しの祭りが終わった。それは、イスラエルがエジプトの奴隷状態から救いだされた過去の歴史を振り返り、誰が彼らの救い主であり、導き手であるかを明確にする祭りであった。当然のごとく、人々は、偶像を破壊し、偶像礼拝に関わる施設を破壊した。唯一真の神が認められ、その神が崇められるのであれば、もはや偶像など必要がないからである。そのような意味では、とかく多神教的な信仰をよしとする日本人の場合も、唯一真の神を認められるかどうかが、偶像と決別する力となる。

ネパール人のバクタプルは、ヒンズー教の偶像が至る所に建てられている町であるが、ある人が、聖書の真の神を信じた時に、やはり神は、石や鉄で作られたものではないとわかり、もはや、そのようなものを拝むことを一切やめてしまったという。確かに、真の神はただお一人であり、私たちは、その方のみを信じるべきなのである。

2.祭司とレビ人の組み分け

2節からは、神殿奉仕のための祭司とレビ人の組み分けについて語られる。いわゆる神殿での祭司職務の秩序回復が実行された。さらに全てが整った時に、律法の規定どおりに祭儀が滞りなく行われていくように経済的な面での再建が試みられた。まず王自らが、それらの費用を、自ら忠実に負担し、範を示し(3節)、さらに民たちに十分の一の献げ物を持ってくるように指示している。ヒゼキヤがそのように命じた目的は、はっきりとしていた。祭司とレビ人が他の仕事に就く必要がなく、聖書に定められた規定どおりに、その務めに専念できるようにするためであった。そして既に述べたとおり、この書は、捕囚帰還の民に向けて書かれたもので、読者は、自分たちの過去の歴史に、つまりヒゼキヤの改革に、神殿建設後の体制について正しい在り方を教えられなくてはならなかったのである。実際、ネヘミヤ記を読むと、彼らは、神殿を再建した際に、散らばっていた祭司やレビ人たちを、エルサレムに呼び集め、歌い手や門衛といった、任務に就かせている(12章)。ところが、彼らの生活のための支給が滞るようになると、彼らは生活の必要を補うために農地のある元の家に逃げ帰ってしまうのである。そんな彼らに、どのように神殿奉仕のための仕組みを維持すべきかを、彼らは歴代誌をもって教えられていくわけだ。

3.10分の一献金

ヒゼキヤの時代に学び、ネヘミヤは、十分の一の献げ物を神の民に行うように指導していく。宗教改革が進められ、ないがしろにされていた神殿が再建され、祭司やレビ人の職務が回復されたときに、彼らはそれらの活動を維持するために、自分たちの伝統に教えられて十分の一の献げ物を徹底して指導することになるのである。

現代において、教会が十分の一献金を教えられるのも同じ理由である。教会の必要は、会堂の維持管理ばかりではない。牧師が生活のために汲々とし、アルバイトをして、付け足すように牧師の働きをすることほど、教会にとって不幸なことはない。しかしそれが現実となっている教会は、日本の場合、70%以上もある。それでは宣教の1%の壁を破るのは難しいというのは、よく理解できる理屈である。牧師がその務めに専念できるように祈りを持って献金を勧めることは間違ってはいないことだろう。

人は概して他人の生活には無関心なので、ヒゼキヤが祭司の生活に配慮し、献げるように教えたように、誰かが声をあげなくてはならない。牧師から何かを受けることを期待するだけではなくて、牧会の働きをする牧師の生活を支えることを考えなくてはならないのだ(ガラテヤ6:6)。教会の必要は、皆で責任を持って負うべきものであり、誰かが献げてくれるだろう、という意識ではだめなのである。

また、住民は、ヒゼキヤの勧めに従って、すべての収穫の初物を持ってきた。十分の一をささげるにあたり、余りものでも、廃棄品でもなく、初物を持ってきたところに、当時の人々の深い神に対する喜びがある。大事な点だろう。献金は献げる祝福であり喜びである。それは神の恵みに対する応答として、イエスの十字架愛を証しする愛の業として、正しい心がけでなされるものだ。牧師の生活を支えてください、教会の維持にご協力ください、というのではなくて、喜びをもって献げられたものが、豊かに教会の必要を満たす、ものとなるのだ。

感謝、祈願だけのクリスチャン生活を卒業し、献身、献金においても豊かな者でありたいところだろう。感謝が本物であれば、献身、献金も豊かであるはずだ。結局、その人がどのような救いや恵みを経験しているかが決定的なのだ。そして、救いや恵みが本当に大事であれば、それを多くの人に経験してもらうために、教会の働きが豊かにされることを願う献金へとつながるのだ。そのような意味で、献金は、その人の心の豊かさ、神と人への愛を表すものだ、と言えるだろう。

ともあれヒゼキヤがこうして務めを果たすことができたのは、彼が「神に求め、心を尽くして行った(21節)からであった。彼はダビデの助言に従い(1歴代22:19)、先の王の模範に倣った(2歴代15:17)。このように主を求めることは、必然的に神殿礼拝を最優先することになる。こうして王が礼拝を最優先する時に、王自らの人生も変えられていく。彼の繁栄至る道筋には、落胆あり(2歴代30:10)、深刻な危機あり(32:1-23)、自分の罪の現実との向かい合いあい(32:25-26)と様々であった。しかし、神は自分を求める者を祝福されるのである(詩篇1:1-3)

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