エステル記3章

<要約>

おはようございます。古代のアウシュビッツともいうべき、ユダヤ人大量虐殺の出来事が、計画され実行されていきます。神は、このような状況になぜ即座に「待った」をかけないのか。考えさせられるところでしょう。こうした疑問は、私たちの人生には多々あるものですが、聖書の著者は、人間の思考的限界を超えた神の感性について語っているようです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ハマンとモルデカイ

ハマンという人物が王に重んじられ、昇進させられた。すでに、モルデカイは、「ベニヤミン人キシュの子~」と素性が明らかにされていたが、ハマンは「アガグ人ハメダタの子」である。思い出されるのは、1サムエル記15章に記された、サウルがアガグを聖絶しなかった出来事である。著者は意図的に、このような素性書きを記したのかはわからないが、歴史家のヨセフォスはハマンをアマレク人の王アガグの末と語っている。もっとも七十人訳は、アガグ人を「威張りや」と訳して、そのような対比に拘っている様子は全くないが、かつてサウルがアマレク人の指導者アガグ王のいのちを助けたことで、サウルはサムエルに叱責されたが、それはこうした顛末につながるものであったのだ、と読めなくもない、ということなのだろう。神を恐れることのないハマンと神を恐れるモルデカイの対決の構図は、素性書きにも明らかにされている、というのだが、それは読み込み過ぎかもしれない。

さて、王の家来は、昇進したハマンにひざをかがめてひれ伏すように命じられた。しかし、モルデカイは、正直率直な人間で、ハマンに社交辞令を示すことを拒んだ。そして「あなたはなぜ、王の命令にそむくのか」と忠告されている。そして、ハマンもまたこの事実を知るにつけ、モルデカイの頑固な反抗を受け入れがたく思うようになり、モルデカイにとどまらず、ついに、彼の民族をも含めて処罰し、根絶やしにしようと決心していく。

こうして、その日を決定するために、くじが投げられた。くじは古代東洋では一般によく用いられた方法である。イスラエル人もその手段を用いることがあった(箴言16:33)。ただハマンもくじを用いたが、単細胞の迷信家ではなかった。むしろ、自分の計画を遂行するためには、吉兆の時を待ち、王に計画を納得させようとする戦略家であつた。また銀1万タラントは345トンの銀であるが、それを自らの計画のために、一時的に出資できるほどの財産家でもあった。モルデカイが彼を認めなかったのは、こうした要領のよさと金で権力を手にした人物であったからなのかもしれない。

2.

ともあれ、ハマンの策略は、図らずとも逆にユダヤ人に1年の猶予を与えることになる。王は、不動の王の決定を証することになる指輪を渡して、ハマンの意に任せることになる。ハマンは個人的な恨みを、こうして組織的な国家の政策とした。「根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの財産をかすめ奪え」実に恐ろしい命令である。

12節、第一の月の13日は、過ぎ越しの子羊をほふる日の前日である。ユダヤ人であれば、だれでも忘れることのできない日である。出エジプトにおける神の救いの御業を思い起こさせられるところであるが、主は、ハマンの行為を敢えて止められない。悪者がますます栄えると言わんばかりのように、著者は、シュシャンの町の混乱と、王とハマンの酒宴の時を対比させている。いや神の正しい審判が摂理的に動いている中で、取り除かれるはずの悪の深まりを描いているのでもあろう。あるいは、ハマンに対する悔い改めを待ち望む神の忍耐を示しているのか。いずれにせよ、状況の良し悪しに関わらず、神への信頼が私たちにとって全てであることを、私たちは教え諭されるのである。

 

 

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