ヨブ記4章

4章 エリファズのことば

<要約>

おはようございます。最初にヨブに口を開いたのはエリファズでした。エリファズは、ヨブの体調を気遣いながら語り掛けますが、その内容は真理であっても、実際には、ヨブを建て直す言葉にはなりませんでした。パウロはエリファズの言葉を引用していますが、同じことばであっても、それが受け止める人にとっては、黒とも白ともなる。状況次第です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.語り始めた友

まず口を開いたのは、テマン人エリファズであった。ヨブと友人たちの対話は、大きく三つのサイクルで構成される。第一サイクルの対話は、14章まで続き、友人の語り掛けにヨブが答える、6つの問答がそうである。テマンは、エドム地方にある地名で、今日のタウィラン、南アラビヤ地域のイエメンを指すことばとされているので、おそらくエリファズはその地の住民または出身者なのだろう。テマン人は知恵あることで知られていた(エレミヤ49:7)。彼は長老格のようである。

さて3章のヨブのことばは独白である。しかしそれを聞いていたエリファズは、そこに違和感を覚えて、何かを語らずにいられなくなったのである。エリファズはヨブの体力と気力を気遣い、聞くに堪えないことを覚えながらも、敢えてヨブの語る内容について黙っていることができない、と切り返している。そして2章に渡る長い言葉の中で、六つのことを語っている。

2.あなた自身を訓戒する時ではないか(1-6節)

まずエリファズは、ヨブの体調を気遣っている。彼は自分のことばにヨブが堪えることを願いつつ語っている(1節)。つまり、ヨブは、人生の指針を人々に示し、苦境に陥った人、躓いた人、気落ちした人を常日頃励まし、力づけてきた。その強力なことばを今こそ、自分に向ける時ではないか。けれどもヨブはそれをしないし、それができない、いったいヨブよ、あなたの確信はどこに行ったのか、というわけである。

3.不幸には必ず理由がある(7-11節)

次に、不幸には必ず理由がある、人は自ら蒔いた種を刈り取るのだ、と言う。つまり、今ヨブの病気は重く耐え難いものであっても、命ある限り希望はある。潔白で直ぐな人間が人生の盛りに絶たれることはない。不法を行う者、害悪を蒔くものがそれを刈り取るのだ、と言う。10、11節の獅子のたとえは、解説が必要だろう。つまり獅子の家族は、富と権力を握ってやりたい放題の一族をイメージさせたものである。彼らの抑圧的、搾取的な言動は、貧しい者を恐れさせる。けれども、その横暴もいつまでも続かない。神が彼らを裁かれるので、その富と権力は失われ、獅子の子らは散らされていく、ということだ。彼らは、それにふさわしい報復を受けるのだ。確かに、パウロは、神がそれぞれの行いに応じて裁かれることを語っている(ローマ2:6-11)。

4.幻によって確信を得たことばなのだ(12-21節)

最後にエリファズは、神秘的な自らの経験をもとに語り掛ける。人々が深い眠りの中にある時に、エリファズは幻を見、うなされた。それは、アブラハムが体験したような「ひどい暗黒の恐怖」(創世記15:13)であったのかもしれない。彼は、この経験を自らのことばの確かさを示すものとして語っている。「人は神の前に正しくありえようか」はこの後、何度も繰り返されるフレーズである(15:14、25:4、9:2)。神の最高の被造物である御使いにすら、神は誤りを認められるのならば、まして土塊から造られた人間は、そうであろう、人間を打ち殺すことなど、害虫のシミを潰すように簡単なことである、と言う。それは吊り紐の杭が抜かれれば、崩れてしまう天幕に似ていて、一瞬の終わりであって、ヘブル語では、べ・ロー・ホフマー、つまり自分の人生の意義を悟ることがない、ということだろう。

エリファズは、ヨブを気遣いつつも、慰めるどころか、ヨブの考えの足りなさを指摘し、批判する形になっている。これが人間の限界なのだろう。人は自分の悲しみを語るが、返って来ることばは決して期待通りではなかったりする。それは人が、それぞれが違う経験を生きているからなのだろう。「わかる」と思うようなことがあっても、それは、100%ではありえないし、分かりえあえない部分は必ずあるものなのだ。そのような意味では、今日、私たちが、心配し、気遣う人について、私たちは、何かを語りかける前に、まず魂の極みまで御存じである神が、その人の上に最善をなしてくださるように切に祈るところから始めるべきなのだ。私に何かができるとは考えないことである。今日も、深く祈りとりなすところから、私たちの人に対する関わりを始めさせていただこう。

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