ヨブ記9章

9章 ヨブの反論

<要約>

おはようございます。ヨブの反論の中に極めて、重要なテーマが出てきます。確かに人生において神は横暴だ、と思われることがあるものです。しかしその横暴な神にとりなすキリストの存在があることを、このヨブの反論は語り掛けてくるのです。新約聖書と旧約聖書の知識が結び付くところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神に手向かうなど愚かなことだ(9:1-13)

ヨブは、ビルダデの意見を受け入れている。異論を挟む余地はない。確かにおっしゃるとおりに神は義しいことをなさるし、神は誰かの人生に突然変更をもたらすこともできる。それは、その人に非があったからかもしれないが、いや自分は正しいのだと神に訴えたところで無駄である。神の言うことはすべてまかりとおるだけで、相当の理由があって異議を申し立てたところで相手にされるわけではない(3節)。神は知恵があり、全能である。神は意思されたことをそのままやり遂げるお方であるから、そのような神に手向かうなど愚かなことだ(4節)。

考えてみたい。人間より大きなスケールの山々の実例をあげよう。山々は、ある日、突然起こった地震で山崩れを起こし、その地形も様変わりとなってしまう。山々は、予期せぬこの出来事に、誰が自分に敵対しているのか、などわかりもしない(5節)。それは神なのだ。恐るべし!神は山々、いやこの地球よりもはるかに大きい、太陽も、宇宙も自分の意のままにされる(7節)。海も、天の天も、宇宙の秩序全てが神に造られたものであり、神の御手のわざによって動いている(9節)。神のなさることはなんと偉大なことか、目がくらむようなものだ(10節)。

他方、そのような世界に住まう人間に注目してみよう。神は人間に関わろうとする時に、その直ぐ側を通り過ぎるのだろうが、見えないし、私には気づかない(11節)。神が私に関心を向け、私のものを奪い去ろうと決心をして、それを取り上げるとしたら、誰も神を引き留めることも、そこで、「あなたは何をするのか」など抗議することもできない(12節)。

私たちの世界には、ラハブのような反逆者がいるものだが、その反逆者もただ、神の決定には身をかがめて従うだけだ(13節)。

2.神と争うなど無駄である(14-24節)。

ならばどうして神に逆らえようか、神に対して語り掛ける言葉を選ぶことすら無駄である(14節)。この神の前にあっては、言い訳を認められない無力な被告人として、哀れみがあることを願うのみだ(15節)。私の抗議の声など聞き入れてもくれないだろう(16節)。

それにしても神は、私を傷つけ、痛めつける。なぜこんな風にするのか、理由も言わず、行きつく暇もなく痛めつけてくる(17節)。「俺が法だ」と語る神と、私はどうして争うことができるのか。私は潔白だと主張し、神とやりあっても、神の一存ですべてが決まり、敗訴になることはわかりきったことだ(20節)。神がひとたび罪を認められたら、人は弁解しようがないのである。

神は誠実な者も、悪い者も、同じように扱い、いずれにも死を報いられる(22節)。良い人生を生きた、悪い人生を生きたなど、全く関係がない。ひとたび災害が起これば、いずれも同じ運命を共有し、潔白な人間は、絶望の中に消えていくのみである(23節)。この地上は権力ある者、つまり不正や暴力を見て見ぬふりをする悪しき者の手にあるものではないか。しかしそれは、神が支配者たちに不正に無感覚にさせるためにそうなるのではないか。とすればこの世界の混乱の原因は神ではないか。神でなければ一体だれがそうするのか(24節)。

3.仲裁者が必要なのだ(25-35節)

光陰矢の如し、私の人生も、ただ死という目標を目指して急いでいく(25節)。それは急流を下る葦の船のよう、獲物をめがけて舞い降りる鷲のようですらある(26節)。

そのような人生において、明るく振舞、何事もなかったように機嫌よく装うこともできるかもしれないが、この痛み、苦しみは、ごまかすことができない。あなたは私を犯罪者として扱っておられるのだ(27、28節)。あなたは私の案件ではなく、自分の案件を審理する裁判官で、私が間違っているのだ、とすることになんのためらいもない方。そこで、神に向かって、そのやり方を責めても無駄ってことだ(29節)。たとえどんなに私が身を清めようとも、あなたの腹積もりは決まっている(30節)。

この私と神の間に、仲裁者はいないものなのか(33節)。弱者に寄り添って、その言い分を助ける仲裁者がいればよいものを。そうすれば私は恐れず神を告訴できる。だが今はそうではない(35節)。ここに新約におけるイエスの贖いの必要性が預言的に語られている。

今日、天に召されるとして、私たちが神の前に出て裁かれることがあったとしたら、一体誰が、神の問責に耐えられるだろうか。日本の宗教文化の中で生まれ育った私たちには、お釈迦様がいる、と思うかもしれない。しかし、お釈迦様はどんな方か。カンダタの蜘蛛の糸の話には、蜘蛛を助けたことを思い出してあわれみをかけてくださったお釈迦様が登場する。しかしそのお釈迦様は、カンダタの自己中心さのゆえに、蜘蛛の糸が切れると悲しみながら去っていくお方である。罪人を悲しんでも引き上げてくれるお方ではない。私たちとお釈迦様の間に立つ弁護人がいないという現実がある。

しかし聖書は神と私たちの仲裁者であり、弁護者であるイエスがおられることを語っている。いな、イエスは弁護者どころか、神の裁きの座で、私たちに代って、神の裁きの宣告を受けてくださった。十字架上の死は、私たちの身代わりであり、まさに私たちが受けるべき神の怒りを受けてくださった姿である。だから私たちはもはや神を恐れる必要はない。神に語り掛けたいことがあれば、イエスの御名によって祈りなさいと教えられている。イエスの十字架は、後の天国の祝福の象徴であり、保証である。裁きの座にあって、神と私の二人の関係を取り持ち、この私を引き上げてくださるイエスがいるのである。

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