ヨブ記23章

23章 神の時を待つ

<要約>

おはようございます。トンネルは長くてもいつか、抜けるものです。しかし長くなるとこの先どうなるのか、と思うところでしょう。主の善であることを信頼し続ける、それが全てです。信仰は目に見えないものを臨み見る力なのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神に沈黙され、神に身を隠されてしまった(1-9節)

エリファズよ、ありがとう。「あなたの道の上には光が輝く」と言ってくれて。しかし、将来など考えられない。今が問題なのだ。この苦しみから今解き放って欲しいのだ。あなたにはこの嘆きの深さがわかるのか。あまりにも嘆きが激しく、もう神の憐みを求めて手を挙げて祈る力さえない。この垂れさがった重い両手を上げる力も気力もないのだよ(2節)。

さらに言えば、神に沈黙され、神に身を隠された私としては、どうやって神に近付いたらよいのかわからない(3節)。神に全てを話して、わかってもらいたいと思っているのだが(4節)。神がそれに対してなんと言ってくださるのか聞きたいのだ(5節)。神はきっと私と語り合ってくれるだろう。無下に私の訴えを退けて、背を向けたりなどしないだろう(6節)。そして私の正しさを認めてくださり、裁きを免れるだろう(7節)。だが問題は、その神がどこにおられるのか、四方に探し求めても、見出すことができない、神は全くご自分を隠されてしまった。これが問題だ。

ここには、人ではなく、神のことばを求めるヨブの姿がある。ヨブがいかに神と共に生きてきたのかを思わせる。ある意味でこれほどに、神の御前にあることを意識して生きることができたら、というところではないか。ただたとえそうであっても、神が見えなくなってしまうことはあるものだろう。どんなに呼び求めても答えがなく、自分の寄るべき支えが得られない、ことが信仰生活にはあるものだ。大切なのは、そのような時もあるものだ、と心得て、そのような時の過ごし方を心得ておくことなのだろう。

ある外国人と海外に出かけて一緒に日本に帰着した際に、入国審査で、手間取って私を見失った場合、荷物引き取り場所で会いましょう、と約束した。大変な人混みに押されて、離れ離れになってしまったら、という心配があったのだろうが、実際に離れ離れになってしまっても、彼は落ち着いて荷物引き取り場所にやってきた。見失って、そのままということはない。ただ見失う時間がないことはあるだろう。

2.神の前に困惑しつつも、神に語る

そこでだ、神が私を試されるなら、私は混ぜ物のない、純粋な者であることがわかるはずだ(10節)。実際、私は神に忠実な信仰者であったことは確かなことである(11節)。神が語られたことは、いつも私の生活原理であったし、私は自分の思いを通そうとしたことはない(12節)。

しかしだ、神はなぜか、私に対して心を定められた。それを覆すなどできない相談だ(13節)。というのも神には、妻も、友達もいないではないか。私の事案を仲介できるような人などいないのだ。神が心を定められたら、もうそれを覆すことはできない(14節)。私の子どもの死、妻の冷酷さ、失われた財産、そして今解放して欲しいこの病、全ては、神が心定めた結果だ。それはなぜなのか。降って湧いたこの不幸をお定めになった神に脅えざるをえない。本当に神は怖いお方だ(15節)。この不可解な神の態度をどう考えたらよいのか。ただ、不気味に思えもする神に対して、私は、黙る必要はないだろう。神は愛であるとすれば、とことん語ることがあってよいはずだからだ(17節)。

ヨブは、神と闇を区別し、すべては神によって生じていることであり、闇も神によって引き起こされている、その中で嘆いている状況を語っている。神のみこころを思い、神に聴く姿勢を守りながら、神の時を待つことを学んでいきたいところである。

 

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