ヨブ記33章

33章 仲介者による救い

<要約>

おはようございます。エリフの弁論の中に仲介者の思想が出てきます。初めてヨブの、一番言いたかったところに触れる存在が現れた、というべきでしょう。しかし、三人の友の議論があればこそ、このエリフの議論も輝くのです。物事はそんなに単純ではない。複雑さの中に、シンプルな結論が煌めくのであって、単純に言い切らない深さを持って行きたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.私はヨブと対等に語りたい(33:1-7)

エリフの語る内容は、三人の友が語るものとあまり変わらない。しかし、立脚点は明らかに異なる。神は人よりも偉大である。これは同じ。しかし、エリフは言う。ヨブよ、どうかあなたの心を開いて耳を傾けて欲しい(1節)私は言うべきことを率直に語ろう(2,3節)。あなたも言いたいことがあれば遠慮なく言って欲しい(5節)。私たちは神の目に対等なのだから。私もあなたも神に造られた者だ(6節)。だから飾らずに、力むこともなく、自然体で語ろう(7節)。

エリフは明らかに、三人の友と違って、上から目線ではなく、ヨブと同じ目線で、いやヨブの側に立って、神を謙虚に仰ぐ仲間としてヨブに語り掛けている。ヨブの心が捕えられていくのは、まさにエリフのそのような謙虚さの故であったのだろう。

2.ヨブよあなたは間違っている(33:8-13)

エリフは言う。確かにあなたが言ったことは、「神に自分が咎められるいわれはない」(8-9節)、「神は重箱の隅をつつくかのように、私の行動に目を光らせ、一つ一つ責任を取らせようとなさる。神は私の敵となった」(10-11節)ということだ。しかし、そんなことを言うあなたは間違っている。今のあなたには、偉大な神を恐れる心が失われているのではないか(12節)。なぜ神と言い争うとするのか。私とあなたは対等であるが、神とあなたは対等ではない。私たちは、土塊であって、神の意思を受け入れるのみだ(13節)。

3.ヨブよ神は確かに語り掛けている(33:14-22)

それにしてもヨブよ、神は様々な方法で語られているが、人はそれに気づかないでいることがあるものではないか(14節)。神は、夜の夢と幻の中で語る(15節)。ベテルでヤコブが経験したことは、まさにそういうことではないか(創世記28:10-15)。神はそれによって、人の歩みを正し(17節)、且つ、前途に希望を失った者に光を与えるではないか(18節)。

また神は、病気と痛みの中で語ることもあるだろう(19節)。神の御手によって、食欲が衰え、以前は美味しく食べていたものも喉を通らなくなり(20節)、すっかり肉が削げ落ちて痩せこけ、骨と皮だけになり(21節)、もう棺桶の中に横たわっているも同じ、ような状況に置かれて語られることもあるだろう(22節)。

4.神は仲介者によりあなたを回復される(33:23-28)

ただ、そのような試練において必要なのは、あなたが言う通り、仲介者だろう(23節)。あなたを懲らしめる神にとりなす仲介者が必要なのだ。そうすれば、神は「もうそこまで、もうよい。あなたの償いは、既に十分なされたのだ」と言ってくださるだろう。あなたは、解放された、もう自由だ、と。そして、神はあなたを回復させてくださるのだ(25節)。彼の祈りは、再び確信をもって祈られ、打てば響くように、神が自分に応えてくださることを感じるだろう(26節)。そして、彼は素直に告白するのだ。「私は本当に罪人そのもので、神ではない自分を正しいとしたにもかかわらず、その当然の報いとしての神の怒りを受けず、(27節)むしろ、神のあわれみにより、命を守られたのだ」(28節)、と。彼は心から感謝するのである。

ヨブの語った言葉を注意深くフォローしながら、ヨブの側に立って語り続けるエリフの姿がある。そしてエリフの言葉の中にメシヤ思想の進展がある。ヨブ記は、意味不明に思える災いや苦難について、神のみこころがあることを教えてくれている様に思うが、それは表面的な筋書きのことに過ぎない。それ以上の内容を持っている。それは、メシヤの存在をはっきりと語り、メシヤの苦しみを語り、メシヤを神と人の仲介者として、またそのつながりの確かさを保証するものとして語ることにある。ヨブの口を通して、仲介者、証人、という言い方でそれは語られてきたのであるが、エリフも、「一人の仲介者」(23節)と語っている。「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た」(24節)。これはまさに、イエスが十字架上でしてくださることを物語っている。既に、ヨブは、14:14において、「人は死ぬと、また生きるでしょうか。私は苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやって来るまで」と語っている。ヨブの願う通りに、ヨブの代わりがやってきたのである。身代金は、人質が死を免れるために支払われる代金であり(22節)、神の怒りに対するなだめである。大切なのは、神が罪に責められる罪人のために身代金の支払いを認められたことであり、救い出されたことである。苦難は確かに、人を懲らしめ、訓練の時を与え、人に高ぶりを捨てさせ、知恵と悟りを与える。しかし、真に人を救い、回復に向かわせるのは、神が恵みによって備えてくださる身代金による。いな、十字架の犠牲を厭わなかった仲介者イエスが私たちの永遠の友となってくださることにある。

4.ヨブよ言いたいことがあれば遠慮なく言え(29-33節)

ともあれ、こんなことが、神のみこころのままに、人の生涯には起こりうるのだ。しかも、二度も、三度も(29節)、耐え難いことかもしれないが、神は、必ず、その魂を滅びの淵から連れ戻して、その命を回復される(30節)。ヨブよ、あなたもそういうことはわかっているのではないか。いな、まず私に語らせてくれ、もちろん、あなたに言いたいことがあればいくらでも聞こう。私は言葉の争いなどしようとは思っていない。あなたの言うことが筋の通ったことであれば、私はそれを受け入れよう(32節)。しかし、私の言うことに、頷くことがあるのなら、さらに語らせてくれ。あなたには学ぶ時、教えを受ける時ではないか(33節)。

翻訳上の訳語の是非はあるとしても、エリフの語り口は、実に、さわやかに私には聞こえてくる。彼は徹底して、ヨブのことばをフォローしながら、自分の論を進めている。ヨブが一番求めたとりなし手、仲介者に触れたのも、エリフのみである。

確かに、神が私たちに敵対したように思われる時に、その神の権威のもとにある、私たちにとっては、仲介者不在の状況は酷であろう。キリストがおられることの恵みが、いよいよ明らかになるところだろう。今日も主キリストの恵みに感謝しつつ、キリストにあって、喜びの人生を歩ませていただくこととしよう。

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