ヨブ記35章

ヨブ記35章 正しい心で神を待ち望む

<要約>

おはようございます。神の沈黙をどう考えるか。しかし、マラキ以降、400年神が沈黙された時代を覚える必要があるでしょう。やがて神は言葉として現れた、つまり、それは神が沈黙を破られたことであると語るのがヨハネの福音書です。沈黙は何もないということではなく、沈黙の陰で動いている部分があると理解すべきでしょう。大切なのは、神の時を正しい心で待つこと、そんなことをエリフの弁論に教えられるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.天に目を向けよ(35:1-8)

エリフは言う。ヨブよ、あなたは、自分を正義の勇士だとでも思うのか。自分が神よりも正しいというのか(2節)。というのもヨブよ、あなたはこう言う。3節「あなたがこう言っているからだ。「何があなたの役に立つのでしょうか。私が罪から離れると、どんな利益があるのでしょうか」ヘブル語の流れに沿って直訳すれば、あなたにとって何の役に立ち、私にとっては何の利益があるのか。私が罪を犯したからといって」となるだろう。言いたいことは、「私が過ちを犯す、犯さないが、果たして神に何の意味があろうか」である。エリフは言う。その通りだ、と。そして、大事な点でもあるのだが、エリフは、ヨブが、弱い者の味方になって、拡声器のように同じ境遇にある者の代弁者となっていることへの警告を発している。4節「私はあなたにことばを返そう。あなたとともにいる友人たちにも」つまり、ヨブよ、そしてヨブの類の人々よ、自分や社会の暗部ばかり目を向けることは止めて神を見上げよ。天を仰げと。地上に雨が降ろうが、雲の上は、常に晴れている。地上のことと相いれない天上の超越した世界がある。確かに、神は超絶した方で、人間がどんなに罪を犯そうと、いかに正しくあろうと、神には何の関係もない、神がそれでどうなる、というわけでもないのだ(5-7節)。この神の至高性を理解することはなかなか難しい。私たちはわかったつもりになっているだけで、その実、神を人間の世界に引きずりおろしていることが多いのだ。

ところでエリフは、8節「あなたの悪は、ただあなたのような人間に、あなたの正しさは、人の子に関わるだけだ。」と語り、計らずも十字架の贖いの思想を示唆している。つまり、人間に正しさが認められるとしたら、それは、人の子とのかかわりにおいて、と言っているのであり、「身代金を得た(33:24)」に続いて、ここでも預言的にイエスの贖いを語っている。大切なのは、私たちが神との交わりを得るとしたら、ただイエスの贖いの故であり、私たちの義そのものが神の目に留まって愛でられるなどありえないほどに、卑しい者であることをわからなくてはならないのである。

2.神に近付く正しい態度を持て(8:9-16)

だから、人間は神に近付くにおいて正しい態度を学ばなくてはならない。それはヨブも同じであった。後半は、祈りが答えられない理由について端的に触れる。「人々は、多くのしいたげのために泣き叫び、力ある者の腕のために助けを叫び求める」(9節)。力ある者が、何食わぬ顔で法と哀れみを捨て去り、自分都合で物事を運び、私腹を肥やすことはよくあることだ。そうした不正は社会に蔓延している。そこで踏み躙られた者は、助けを求め、泣き叫ぶ。しかしそれはただ、獣のように叫ぶだけである。そこで理性をもって、静かに、神はあわれみに富み、眠っている間に全てを供え導いてくださるお方であるし、新しい力を与えてくださるお方である(10節)。また、最も小さな人間にも、獣をはるかに上回る知恵を授けてくださるお方である。そのように創造主の温かな心を信頼し感謝をもって、崇敬しつつ近付くものはいない(11節)。確かに、追い詰められた中で、もはや理性も働かず、ただ愚かさをさらけ出し、神に食らいつくように祈ることもあるだろう。しかし、そうであってはならない。人を思うままに抑圧する悪しき者の祈りを神は聞かれることはないが(13節)、ヨブのように、ただ自分に重きを置いて、自己主張的に神に助けを求める者たちにも、神は心を留めようとはしないだろう(14節)。

そして理解すべきである。神の沈黙は静止ではない。そこには動きがある。神は、私たちの叫びを聞き漏らすような方ではない。人間というものは、とりあえず片が付いた、として物事を終わらせて記憶から消し去ろうとするものである。壊れたものは、もう戻せないのだから、と物を捨てるように切り捨てていくことが多い。だが神はそうではない。片が付いた、と思われるような状況になっても、神の関わりは続いていく。人間的に言えば、神は不器用なお方なのだ。神は至高なるお方であるが、人間の救いのために、手を汚すお方であり、実際に十字架のイエスをお遣わしになったお方である。だから私たちの小さなうめきを決して見過ごすようなお方ではない。大切なのは、そのようなお方として神を見、神に謙遜な心をもって近付きお願いすることなのである。そのような意味で、イエスのゲッセマネでの祈りは、神の御心を優先する模範であったことを思い起こすべきだろう。イエスはヨブのようにまず自分に重きを置いて、荒んで祈ることはなかった。

「訴えは神の前にある。あなたは神を待て」(14節)。これがすべてである。神を神として畏れ、神が私たちの父として心配しておられることへの信頼を大事にし、神の時を待つ、そしてレビ記に教えられるように、正しい態度をもって、神に静かに近づくことである。私たちが学ばなくてはならないのはそのことである。私たちがここで学ばなければ、何度も同じところを通らされることだろう。その度に、神は聞いてくださらない、というのではなく、「訴えは神の前にある」という経験を得なくてはならないのである。ヨブよあなたはその点において弁えがなかったのではないか(16節)。神の時を待つことにくたびれ果てることがあっても、自分が特別であるとは思わず、神の前に謙って、待つことを学ばせていただこう。

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