詩篇7篇

7篇 義なるいと高き神を誉める

<要約>

おはようございます。ヨブ記で学んだ真理を思い起こすような詩篇です。聖書は互いに関連し、ダビデもまたヨブ記を読んで、過ごしたであろうことを思わされるところです。主の誠実さに今日も期待してまいりましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

表題に記された「ベニヤミン人クシュ」とは一体誰なのか。当時の年代記にその名は見当たらず、正体不明である。しかし、おそらくシムイ(2サムエル16:5)のような、ベニヤミン族に属する、サウルに忠実で熱狂的な者であったのではないかと考えられている。シガヨンも意味不明であるが、嘆きの歌とする説がある。

ダビデは今ある自分の状況を語りつつ、そこで神の守りを祈り求めている。確かに、分別もなく、容赦なく責め立ててくる敵に囲まれることは恐ろしい。自分に味方する者が誰もいない。頼りにするのは、目に見えない神だけであるという状況(1節)。それは、狂った獅子に襲われ、噛みつかれ八つ裂きにされて引きずられていくようなものである(2節)。しかも、自分に落ち度があるわけではない。ダビデはヨブのように自分の無実を信じて、神に訴えている(4-5節)。この状況は、恐らく、サウルに対してなんらかの謀反を企てていると誤解されて、ダビデが命を追われた時のことと考えられているが、ダビデは、自分が油注がれたサウルに手をかけようともしなかった事実に訴えている(1サムエル24:1-12)。

2.神の正しい裁きを求める(3-8)

信仰者も様々。苦難にあって、神も仏もないと人に噛みつく人、いや、そのような時にこそ、ダビデのように神を呼び求め、神に訴え、その応えを待ち望む人、様々である。自分が普段、どのようなあり方をしているのか、よくよく考えたいところだろう。

ダビデは祈った。まず自分の内に非があるなら、その報いは受けるべきである、と。ダビデの心は潔い。神の前にやましさのないダビデがいる。だから、この時点でもはやあれこれ思い当たることがあるならば、それを悔い改めるべきなのだろう。その祈りはまた後で学ぶことになる(詩篇51篇)。

しかし、自分が義であると思う時に、またキリストにあって義とされていることを覚える時に、私たちは恐れつつ、いと高き神が、私のために目を覚ましてくださるように、そして裁きの座についてくださるように、と祈ることができる(6節)。既にヨブ記で学んだことではあるが、神はこの私を中心に動いているわけではない。被造物全体を視野に入れている。しかし同時に、神は世界の片隅の一人の罪人が踏みにじられていくことをも許さない。ダビデは、神が誠実で、公平な裁きをきっちりなされるお方であることを信じ、神が裁判の時を設け、その座に就き(7節)、正しい裁きを行うように求めている(8節)。7、8節は、単に裁判の招集のイメージではなく、終末的な裁きのイメージを感じさせるところがある。

3.神の誠実さに期待する(9-13節)

これもヨブ記で学んだことであるが、このような時に祈るポイントは、まず神に栄光を帰すことにある。神について思いめぐらし、神が、自分を弁護してくださるお方である(8節)、盾となってくださるお方である(10節)、心の直ぐな者を救われるお方である(10節)、つまり正しい審判者(11節)である信仰を告白することである。その確信に立って、静かに自分の窮状を神にお伝えするのである。根拠のない非難や中傷に腐り果ててはならない。むしろ神に愛されている神の子として、心を高く持ち、神の守りと正しい裁きを求めていくことだ。そして神は全地をさばく方であり、悪は自滅するという確信を、信仰的に歌うことである。

義しい者は、勝利を確信してよい。また、神の義は、非情な義ではない。悔い改めを待ち望む慈愛に満ちた義である。悔い改め、自らを正すならば、それを許容される義である。神はただ義しいのではなく、愛の審判者なのである。だから、悔い改める者には、実にいつくしみ深いお方であり、そこにまた神の義しさがある。

だが悔い改めのない不法な者は、自ら、その滅びを刈り取ることになる。ヤコブは、「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:14、15)と語ったが、人は、神に裁かれて滅びるというよりは、自滅する、「自分が作った穴に落ち込」むのである。自らの頑迷さの故に、愛の審判者の愛を受けそこなってしまう。結局、悪者は、自分の悪の報いを受ける。だから、不条理な苦しみを味わうことがあったならば、その不条理さは、不条理さを引き起こした者の上に戻って行く、帰って行く、と考えるとよい。そのように考えられなくとも、そのように考えて、神を信頼するところに、私たちの義がある。それは神の誠実さを認め、信頼することだからだ。

神は義なる方であり、いと高き方である(17節)。ヨブが教えられたように、この確信を静かに保ちつつ、恐れつつ主を仰ぐときに、私たちは苦難にあって、自らの先に明るい見通しを得ることができる。主は、義しい者の味方である、と告白することとしよう。

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