詩篇8篇

8篇 神の御威光

<要約>

おはようございます。今日の詩篇は、ただ単に、神の威光を讃え、人間に遜りを教える者と読むのではなく、新約の光の中に、イエスの謙卑を読み取り、イエスによって、私たちがその高さと親しさに招かれていることを理解するように読んでまいりたいものです。そこに真の神に対する遜りも生じるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

「ギテトの調べにのせて」とある。ギテトというのは、ぶどう搾りの仕事の際に口ずさむ調べであるとも、また、ガテ地方から伝わった楽器またはメロディを指しているとも、種々に説明されているが、確かなところはわからない。ただ、ぶどう搾りの時期であるとすれば、それは、イスラエルでは仮庵の祭り、収穫祭に当たる秋になるのだから、神の恵み豊かさを覚えて感謝する歌である、という理解もできる。

2.神の絶対的威光

まずダビデは神を賛美する。神の栄光は、天でたたえられているのみならず(1節)、地においてもそうである(2節)。しかもこの地においては、「幼子たち、乳飲み子たち」、つまり最も弱い者によって、その栄光がたたえられるのである。イエスは、ご自身に向かって「ダビデの子ホサナ」と呼ぶ子どもたちに腹を立てた律法学者たちに対して、この詩編2節を引用している(マタイ21:16)。イエスにとってそれは一種の言葉遊びでもあると同時に、地においても神の栄光が認められ、たたえられている神のことばの真実を示すためだったのだろう。イエスの栄光はまさに「敵対する者に応えるため、復讐する敵を鎮めるため」であった。神の主権は、絶対であり、その威光は犯しがたい。

神は神であって、人に比べうるものではない。神の御名は天においても、地においても、力強くたたえられる。そのような認識を欠いて人間に真の遜りは起こらない。ヨブ記で教えられた通りである。

3.キリスト論的に理解する

ダビデは、自分のような小さき者を神が心に留められ、顧みられることへの驚きを表明する(4節)。だが、ダビデのような感動でこの箇所を読み流してしまってはならない。というのは、新約聖書においてへブル人への手紙の著者は、み使いに優るイエスの志向性について語る文脈の中で、この箇所を引用しているからだ。ダビデは、小さな罪人に過ぎない自分を顧みる天の神のあわれみに感動している。イエスは、この同じみ言葉を用いて、ご自分が、天の高さから地の低さに降りてこられた神であることを示された。そしてヘブル人の著者は、イエスの解釈を踏まえて、キリストが、「み使いよりもわずかの間低くされ」人間の生活のただ中に降りてこられ、人間の不自由さと死を味わい、そして高挙されたイエスについて解説している。そこでへブルの著者が感動をもって語るのは、その高さに戻られたイエスが、私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされないこと(へブル2:11)、そして私たちを完全に救うために、全ての点でその兄弟たちと同じようにならなければならない、つまり自ら試みを受けて苦しまれたことである(へブル2:17,18)。それはまさにヨブが求めた仲裁者の実現に他ならない(ヨブ16:21)。

そのような意味で、この詩篇は、新約の光に照らせば、もはや、単なる神の偉大さをたたえるだけの内容を超えて、人間の罪の世界に降りてこられ、人間の生活の極みを味わい、天に再び戻られたキリストの威光を覚えさせるものとなるのである。

 

実際、パウロも6節後半を引用し、キリストの復活と昇天によりキリストの統治権が完成したことを示し、それが、私たちを同じ復活の栄光に導く目的を持ったものであったことを明言している(1コリント15:27)。

このような新約聖書による旧約聖書の解釈は重要である。ユダヤ教徒であればこのような解釈はしないだろう。キリスト論的に旧約聖書を解釈するのは、グラントが示しているように(『聖書解釈の歴史』新教出版、1966)、イエスをはじめ、パウロ、初代の教会の弟子たちに特徴的な解釈方法である。そして、この解釈が、キリスト教徒を特徴づけていくことになる。私たちには、このような独創的な解釈を打ち出すことは許されていない。

人間は確かに栄誉ある者とされているが、今、私たちはまだその栄誉を完全に受けているわけではない。キリストの十字架と復活に与り、キリストの支配に服する時にこそ、それは完成される。完成はまだ先ではあるが、神を賛美し、神に感謝し生きることが、人間の生において本質的なことだ。主の栄誉にまず心を留め、その比類なき高さ親しさに招かれていることを遜りをもって感謝し、たたえることをもって、今日の出発点とさせていただこう。

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