詩篇24篇

24篇 祝福の主

<要約>

おはようございます。羊飼いの詩篇と呼ばれるものの、最後になります。主の山への勝利の入場、これは、「手がきよく、心の澄んだ、たましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人こそ」相応しいものです。しかし私たちの現実はそうではありません。まさにキリストの王の入場に免じて、私たちもその恵みに与るものなのだ、と言うべきでしょう。深い霊的遜りをもって、日々の歩みを導かれたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

この詩篇は、行列歌と呼ばれる。ダビデが、主の箱をオベデ・エドムの家から、占領地エズス人の都シオンへと運んだ際に、歌われた賛歌の一つと考えられている(2サムエル5-6、1歴代誌15:16-23)。また、同時に、この詩篇は、既に述べたように、22,23篇に続いて、十字架と復活、そして昇天の栄光に輝いたキリストの凱旋を預言的に歌ったものであると理解されてきた。そのような意味で羊飼いの詩篇の一つとされ、伝統的に昇天日に歌われてきた。

さて一読し、改めて思わされることは、イスラエルの民が、自然ではなく、自然を造られた神を拝み、これに仕えたことである(1節)。日本人であれば山の神、海の神を拝むところであろうが、山を造り、海を造られた神がおられる、創造主への信仰が明確である。その神の力と威厳に対する崇敬、遜りを教えられる。

この時、ダビデには、3か月前に起こったウザの不敬事件の記憶がまだ新しかったことだろう(2サムエル6:6-11)。ダビデは、牛車を用いて主の箱を運び上ろうとした。彼にとってはそれが最善の方法と思われたのである。しかしそれは神の方法とは異なっていた。神は、既に主の箱の運び方を、自ら定めておられたのである。主の箱は、担ぎ棒を通して、祭司たちが肩に担いで運ぶものであった。神の前に遜ることはあらゆる自己流を捨て去ることから始まる。神に教えられやすい心を持ち、神の期待に添っていくことである。ただ、そのような遜りは、やはり、天地創造の神の実在を心から覚えることなくして、ありえないことだろう。「全地は主のものです。全地に満ちている全てのものは、主のものです。主がこれら全てをお造りになったのです」という遜りの中にあってこそ、自己流に歯止めがかけられるものだ、と言えるだろう。

2.主の前に立つ

さてダビデは言う。「だれが、主の山に登り得るのか。だれが、聖なる御前に立てるのか」 神を認める遜りにあっては、神の前に立つことは、実に恐れ多いことである。ある人に、信仰を持って何が一番変わったのか、と尋ねたところ、信仰を持つ以前は、いつも人の評価を気にして生きていたところがあったと思う。しかし、信仰を持ってからは自分の心を深く見つめるようになった。自分自身を、知るようになった、と語ってくれた。キリスト教信仰は、自分の心を吟味し、生き方を問うものだ。というのも、絶対他者である神の存在を知ると同時に、その神の聖さ、愛、正しさを認めるようになるならば、そのお方の前には、立ちえない、神に喜ばれるものを何も持たない罪人であることを思うばかりだからである。「手がきよく、心の澄んだ人。そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人」その人は主から祝福を受けるが、私はそうではない。その自覚のもとに、キリストにある罪の赦しと新しい義を求める心も起こるのである。

キリスト教信仰は、今の生活の延長ではない。今の生活を飾り立てることではない。それは、主のいのちを必要とする。いわゆる見かけ上立派な振る舞いをするだけの人間であれば、信仰などいらないのだ。そうではなく、心の内より変えられた「手がきよく、心の澄んだ、たましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない」人になることは、キリストの恵みと信仰を必要とする。いかに正装し、威儀を正し、起立し、姿勢を正そうが、私たちは神の前にふさわしい者にはなりえない。ただ神が定められた方法、十字架のキリストを受け入れることによってのみ、私たちは神の前に立つことができるのである。神の恵みを日々の生活に浸透させる人こそ、まことに神を礼拝することが許されるのである。

3.王の入場

後半は、行列歌のクライマックスである。行列は、しばしば都の閉ざされた門の前で立ち止まり、開城が、王の名によって要求された(7節)。それに応じるかのように、王の名が確認される。入ってくる王の名は何であるか。それは「強く。力ある主。戦いに力ある主」であると宣言される(8節)。ダビデではない。エブス人の本拠を占領し、万人を打ち取ったダビデではない。それは、「万軍の主」である(10節)。つまりダビデに勝利を導いてくださった万軍の主である、と。「戦いに力ある主」は、葦の海での勝利の歌に初めて出て来る「いくさびと」(出エジプト15:3)という神の称号の強調形とされる。まさにそのお方は、十字架と復活、昇天の主をおいて他にない(黙示録3:20)。天の都は栄光のキリストに開城し、私たちは栄光のキリストと共に、神の前に進みゆく。キリストが共にいてくださるからこそ、私たちの栄光もある。今日も主と共に、主の聖所、神の恵みの座に近づく勝利の行進を進め、神の祝福に与らせていただくこととしよう。

 

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