詩篇26篇

26篇 深い遜りをもって礼拝に集う
<要約>
おはようございます。人生に苦難は多いものです。大切なのはそこで、どのような心で神に向かうかです。いたずらに自分の過去を責め、自分を痛めつけることを、神の恵みは許さないでしょう。神の恵みは、私たちを立たせ、私たちに新しい道を歩ませるのです。主と共に、深い遜りをもって、人生を先に進む者でありたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
この詩編をダビデの作とするのは疑わしいとする研究者は多いが、これをダビデの作としてみても、一体どのような時期に詠まれたものであるのかは、よくわかっていない。一説に、国家的に困難な状況があった時なのではないか、と言われている。ダビデの詩編は、サウル迫害、あるいはアブシャロム謀反の背景に位置付けられるものが多いが、それ以外の、国王ダビデの試練を伺い知る数少ない詩篇の一つと言える。
1節、新改訳は、「弁護してください」と訳している。新共同訳は、「あなたの裁きを望みます」となっている。ヘブル語では、シャーファト、一般には「さばく」と訳されることばである。2節「主よ私を調べてみてください」という文脈のつながりで言えば、ダビデは単に自分の弁護を求めたというよりは、今起こっている困難にあって、何を正すべきか、その正当な裁きを望んだ、と理解できるところではないだろうか。どんな状況があったのか、と思うところである。国家的な苦難、疫病の流行、不道徳と堕落、何があったのかはよくわからない。ダビデはその機会に主が語り掛けてくださることを期待している。
2.神を礼拝する民の中で
そしてダビデは、正しい者の仲間であろうとする。4,5節は、詩篇1篇を思い起こさせるところであるが、確かに私たちがどのような者たちと組するかは、私たちの歩みを特徴づけるものである。この二つの節とも、決定を表す時制の後に、継続を表す時制が続いている。つまり毅然とした態度とそれを維持しようとする決意が語られている。そのような決意と行動があってこそ、神に近づき、神の御前に伏す礼拝の意義も出て来る。私たちは神を礼拝する民なのである。
6-8節は、礼拝をイメージしている。祭壇と天幕の間には、洗盤が置かれていて、祭司は、祭壇に近づく前にそこで手と足を洗い清めた。またいけにえとともに、「感謝の歌」が歌われることがあった(7節、詩篇40篇、116篇)。そして詩人は、神を「愛します」(8節)と心から神への忠誠を誓っているように、礼拝においては、神に対する信仰と献身が表明されるのである。
ところで、礼拝の中で、正しさを主張し、正しい裁きを願うダビデではあるが、彼は、姦淫の罪を犯し、権力にものを言わせて殺人の罪を犯している。この詩篇は、そのような大事件の前の作なのか、それとも後の作なのか。ダビデは言う「あなたの恵みは私の目の前にあり、あなたの真理のうちを私は歩み続けました」(3節)。ダビデは真理を歩み続けた自らの力を誇ってはいない。神の恵みの故に、真理のうちを歩み続けた、と語る。となれば、大事件を起こした後の作であると考えることもできるだろう。
3.誠実に歩むこと
11節、「誠実」は二心のないことを意味する。それは全き忠誠を意味する。しかし、神の前に誠実に歩むことは、何一つ落ち度のない完璧な人生を歩み抜くことではない。そんな人生を歩むことは誰にも不可能である。失敗のない人生はありえない。だから、私の人生はこんな詩篇とは無関係であると考えてはいけない。むしろ、礼拝の中で人生の過ちが思い起こされ、神の御前に立つには全くふさわしさがないと思われることがあっても、神の恵み深きことを覚え、その神の前に悔い改め、自分の立ち位置をただし、新たに従うことを決意することが大切である。価値がないと思う人生であっても、悔改め、正しく生きたいと願い、正しい群れの中にありたいと、神の哀れみを求める者を神は拒まれない。
しばしば人は、人の悪意、敵意に心折れてしまうものだ。しかし、人の意地悪に負けてはいけない。神の恵みは私たちの思いを超えるものだからだ。真に悔い改め、正しさを求めて生きる者に、神は決して冷たくはない。神は過去をほじくり返すこともなさらない。人ではない神がどう判断されるかが問題なのである。神は決して、悔い改め、深い謙遜を示す魂を、そうではない罪人と一緒にはなさらない。ただ神のあわれみ寄りすがり、同じように遜って神をたたえる者たちに加わる、つまり主の礼拝の集うことが、私たちに求められていることである(12節)。

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