詩篇52篇

52篇 神の恵みを待ち望む

<要約>

おはようございます。ダビデの個人的な経験に基づく詩篇が続きます。しかし、3000年以上も前に書かれたものでありながら、人間の個人的な経験というのは、時間を飛び越えて、私たちの心に訴えるものがあるから不思議です。聖書は、世界のベストラーであるゆえんでしょう。ダビデが立つ神の真理に、私たちも立たせていただきましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

  1. 背景

ダビデの個人的な経験、サウルから逃れていた時に起こった出来事に基づいて綴られた詩篇がしばらく続く。この詩篇は、ダビデがサウルの元から逃れ、祭司アヒメレクの元に立ちよった時を背景としている(1サムエル記21:1-9,22:9-23)。ダビデは祭司アヒメレクの元に身を寄せ、食料を得、かつて自分が倒したゴリヤテの剣を手にした。かつては、剣など見向きもしなかったダビデであるが、サウルに命を狙われ護身用にそれを手にしたところに、ダビデの追い詰められた心境があるのだろう。祈ると同時に、剣を手にせざるを得なかった切実な状況がある。

ともあれ、この時、ダビデはアヒメレクの元からさらに、敵であるガテの王アキシュの元に逃れようとした。しかしアキシュの家来に、素性がばれ、気が狂ったふりをして、そこから逃れている。何とも惨めな状況である。アキシュのもとから追い出されると、アドラムのほら穴、そしてハレテの森へと逃げた。ダビデは追っ手から逃れようと必死であった。そんなダビデを見つけて、サウルに密告する者がいた。エドム人ドエグである。サウルは、ドエグの密告に、祭司アヒメレクの行動を良く思わず、85人の主の祭司たちを虐殺するのである。いかにダビデが、明日の命も危うい状況にあったかが、理解されるところである。

2.神を力とする

そのような状況にあったことを思いながら、改めてこの詩篇を読んでみる。ドエグに対する痛烈な批判。「おまえは、善よりも悪を、義を語るよりも偽りを愛している」(3節)。お前はまるで英雄のつもりかもしれないが、人を中傷し、いい加減な嘘偽りによって人を破滅させようとするような者は、結局そのしっぺ返しを受けるのだ(3節)。

かつて私自身、人のいい加減な嘘偽りによって追い詰められたと思わされた時、ダビデのようにはなかなか言えなかったことを思い出す。復讐心をメラメラ燃やし、呪いの思いでそう語ることはあっても、悪者が神に裁かれるとは到底思えない現実に、臍を噛む思いでいたものだ。しかし年も取り、信仰の歩みにおいて様々な山谷を超えた今では、同じような経験をしても(人生にはいくらでも同じようなことが起こりうる)、必ず、神は正しい方で、暴虐を許す方ではない、とこの詩篇には心からアーメンを言うことができる。「神は、お前を打ち砕いて倒し、幕屋から、おまえを引き抜かれる。生ける者の地から、お前を根絶やしにされる」(5節)、これは揺るがない真理である、と心の中で確信しているのである。たとえ表面的にそのように物事が進まないとしても、神がなさることを静かに見守ろう、そのような人間は神の裁きの手に委ねて、自分がなすべきことに心を集中させよう、という心が育ってきたように思うところがある。

だからダビデがこう語りながらも、護身用にゴリヤテの剣を持ちだしたのは、ダビデの若さの故、まだまだ信仰において未熟であったためなのだろう、と考えさせられる。ただそれでも、かつての私とは違って、ダビデは神の真理をしっかり把握し、自分の心に言い聞かせ、自分を奮い立たせている点が、素晴らしいと思うところだ。いずれにしても、ダビデの語るところは真実である。ダビデがより頼むものと(神の恵み)ドエグが頼むもの(おのれの豊かな富)とには、その結果に雲泥の差がある。ダビデは、窮地にあって、最良の選択をした。邪悪な力を頼りにする者の将来は危うい。しかし、神の恵みにより頼む者は、生きながらえるのだ。

3.主の愛に立つ

信仰に立つことは、勇気を必要とする。何の当てもなく、保障もないところで、あるいは、全てを失っていく状況にあっても、神の守りと導き、祝福を信じていくからである。自分の身を守るのは、手にある剣ではなく、あるいは、お金でも、人のつながりでもなく、ただ目に見えない神の愛、神の配慮であることを信じていくからである。

イスラエルの乾いた大地に力強く育つオリーブの木を、ダビデは見ながら語る。オリーブは長生の樹木である。古い幹が衰えても、その根元から新芽が生え出ることを繰り返し、再生し続け、永遠に生き続ける樹木とも言われる。神の恵みに寄り頼む者は、神の命に活かされ、尽きそうな状況にあっても決して尽きることはない。パウロは言う。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためなのです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(2コリント4:7-9)今日も、いつくしみ深い主の御名を待ち望むことにしよう。長い眼で、否信仰の目で、成り行きを見ていくことだ。不本意なことがあっても腐ってはいけない。敵をののしり、自ら復讐しようなどとは思わないことだ。復讐は、神に委ねよ。神がちょうどよい裁きをしてくださる。むしろ、そのような輩とは関わり合わず、遠く離れて、今自分が神に与えられている使命に没頭することである。そして風の便りに、そのような者たちが窮地に立たせられたと聞いたならば、そのような者たちの悔い改めのために祈ることなのだろう。主はあわれみ深く、正しいお方である。

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