詩篇54篇

54篇 空気を変えるのは神

<要約>

おはようございます。物事が総崩れになるようなことがあれば、もはや人は誰も味方してくれることはないでしょう。ただ、孤立無援の中で朽ち果てる自分を思わされるところです。しかし、神は正しいことをなるお方であり、神を呼び求める者の味方です。いついかなる時も神に期待し、主の御名を呼び求めるべきなのでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

背景的には、詩篇52篇に続くものだろう。祭司エブヤタルが、エドム人ドエグの大虐殺からダビデのもとに逃れてきた。ダビデは、もう間もなく、サウルがこの町に追い掛けてくることを知ると、町を出て、そこ、ここ、と彷徨うのである。そうしてダビデの所在が再びわからなくなると、サウルはダビデの討伐を諦めるのであるが、ダビデは、身を寄せた同族の町ケイラの人々の裏切りにより、再び窮地に立たせられていく(1サムエル23:19)。ダビデはジフの荒野を彷徨い、急いでサウルから逃れようとしていた。サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んでいた。そこに、ペリシテ人侵入の危機がサウルに伝えられる。サウルは、あと一歩というところで、再びダビデを捕まえるチャンスを逃がしてしまう(1サムエル23:27)。危機一髪の所で救われたダビデが、ジフの人たちの敵意と神の憐れみを覚えて歌った歌がこの歌である。

2.孤立無援の中で

「見知らぬ者たち」は、ジフ人のことだろう。「横暴な者たち」とはサウルのことに他ならない。彼らはいずれも、神を恐れない人々である。そのような中で、「神よ。あなたの御名によって、私をお救いください。あなたの力強いみわざによって、私を弁護してください」(1節)と、ダビデは祈っている。ここでダビデは、自分の身の安全のみならず、正しさが明らかにされることを求めている。敵意にさらされた人間は徹底して叩かれ、打ちのめされ、滅ぼされようとするものだろう。人間の敵意ほど執念深く恐ろしいものはない。サウルの敵意の前に風前の灯火にある心を力づける詩篇が52篇であるとすれば、54篇は、その場の空気に左右される無関心な人々が敵対者に加担し、いよいよ多勢に無勢、追い詰められていく中での祈りである。ジフの人々は、ダビデは裏切り者であるとし、サウルの側に立った。しかし彼らは何が起こっているのかを正しく理解しているわけではなく、正しく理解しようとするわけでもない。人は他人の不幸に関心は向けても、何が正しい事で、何をすべきか、ということまでは考えないものである。打ちのめされた人間をかわいそうとは思っても、その人間の悲しみに寄り添うほど関心は持たないものである。

3.ダビデの逃げ道

そこでダビデはどうしたか。ダビデは「御名」を呼び求めている。この直後に書かれたと思われる、詩篇31篇にも「あなたの御名のゆえに、私を導き、私を伴ってください」とある。人の敵意のみならず、自分を取り巻く状況が益々冷え切っていく中で、その空気を変えてくれる人など、現れることはない。物事が総崩れになるようなことがあれば、もはや、誰も人は味方になろうとはしないだろう。途方に暮れる状況の中で、ダビデは、神の力強いみわざ、神の真実を覚え、神の御名を呼び求めている。

神は目には見えないし、そんなものはあてにならないと思われるかもしれない。しかし、人には、正しいことをなさる神の御名を呼び求めることが許されている。呼べば応えてくださる神に声をあげることが許されている。

ダビデは、その祈りによって束の間の休息を与えられた。ペリシテ人侵入によってサウルが引き返したからだ。それは根本的な解決ではなかったが、神が助けてくださったことに変わりはなかった。なぜ神が根本的な解決をもう少し先に延ばされたのかはわからない。一時しのぎではない救いを求めるところであるが、ダビデは、退却するサウルの軍隊を見ながら「神が、すべての苦難から私を救い出し、私の目が敵を平然と眺めるようになったからです。」(7節)と語る。たとえ一時しのぎであれ、ダビデは神の臨在を感じながら完全な救いをそこに期待できたのである。

あらゆる状況の鍵を握っておられるのは、神ご自身であって、優勢な敵でも、勢いを盛り返した自分でもない。権威をもって、正しいことをなさる神に期待できる幸いがある。神の御名に期待する歩みをさせていただこう。

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