ルカの福音書4章

イエスはその公生涯の初めに悪魔の試みを受けた。私たちからすれば、このような試みは、まずありえない。しかし、他の者にはない力を持っておられることを自覚されるイエスにとっては、その力をどう用いるか、神のみこころを探り、そのみこころに従う時が必要だったのである。一般に40日間は、試験の期間をあらわす。つまり、イエスにとって、全知全能の神の力を持ちながらも、「すべての点で兄弟と同じにならねばならなかった」人間性を試され(ヘブル2:17,18、4:14-16)、その力を制限し、聖霊に導かれて、神のみこころに従っていく時であった。

悪魔の誘惑については、マタイと誘惑の順序が入れ替わっていて、その理由もよくわかっていないが、それらは神の子イエスの人間としての姿勢を語るものとなっている。つまり、第一にイエスに与えられた力は、神の使命遂行のために用いられなくてはならなかった(4:1-4)。また、イエスが得るべき権力と栄光は、全て神に帰せられるものである(5-8節)。さらに、イエスの使命は父なる神のみこころに服従し、仕えることにあった(9-12節)。イエスはこうして自分の使命を確認し、神の権威に服し、聖霊に満たされて、公生涯の第一歩を踏み出すのである。

続いて、イエスのガリラヤ宣教が記録される。16節、会堂が複数形であるのは、イエスが宣教旅行をしたことを意味している。イエスの語る福音は、皆の評判を得、広まった。そしていつものとおり、安息日を守るユダヤ人の習慣に沿って、イエスは自分が育ったナザレの会堂を訪れるのである。イエスは、朗読のために起立している(16節)。神の言葉に対する尊敬のしるしとされる。そして、説教の時には座っている(20節)。私は明らかにここに説教は聖書朗読の翻訳に過ぎないという格付けがあると考える。礼拝で最も重要なのは説教にあらず、聖書朗読にあるというわけだ。確かにすべての良い説教は、聖書が語ることを正しく文脈化して伝えるものである。説教は聴衆を集めるものではなく、神の礼拝者を育てるものだからである。

さてイエスはイザヤ書を朗読し、いよいよ主の使命が果たされる第一歩が踏み出されたことを伝えた。イエスの聖書解釈の特徴は、すべて旧約聖書を自分に当てはめて語ることである。これは、私たちの聖書解釈手法とは明らかに違う。私たちの場合は、むしろ、すべてイエスの聖書解釈を指示し、キリスト論的に語るパウロの聖書解釈に近い。ただし、厳密にはパウロの聖書解釈とも違う。使徒としてのパウロだけが許された解釈もあり、私たちはそれを超えることはできない。

ともあれルカは、荒野の試みの後、すぐにイエスのガリラヤ伝道を記録しているが、この二つの出来事の間には、すでに様々な出来事があった。ヨハネ、アンデレ、ペテロ、ピリポなどの弟子が起こされている。カナの婚礼の奇跡、第一回目の過ぎこしの祭りと宮清めの事件がある。またニコデモがイエスを訪問した出来事もある。なぜルカは、多くの省略をして足早にガリラヤ伝道の話へと急いだのか、と思うところであるが、それは、荒野の誘惑の話を、イエスの使命の確認の物語として位置づけ、その使命を明確にするエピソードをつなげたかったからなのかもしれない。

つまり、イエスが世に来られたのは「貧しい人々」「捕らわれの人」「盲人」「虐げられている人々」のためである。これまで社会では見捨てられていた人たちに、神の力と恵みをもたらすためであり、彼らには希望があることを教えるためである。しかしながら、ナザレの人々は、イエスが優れた人物であったことは認めたが、神の子として歓迎しようとはしなかった。「この人は、ヨセフの子ではないか」(22節)とイエスをどこまでもただの人として見るだけであった。イエスを好意的に見ても、イエスを神の子として受け止めるのでなければ、そこに救いは起こらない。イエスをまことに神の子として認め、信仰をもってイエスを受け止める者のみが、そのイエスのもたらす恵みに与るのである。

そういう意味で、31節からの悪霊のエピソードも、ナザレの人々とは対照的なイエスを神の子として認める悪魔の姿を描いている。イエスは、神の子であり、神の国の福音を宣べ伝えるばかりか、そのことばの真実さを神の力を持って証しした。イエスをどのような方として見て行くか。ナザレの人々のようにイエスを私たちと同じ地平線に立つ人間の延長として見ていくのか、それとも、人間として生きているイエスに「あらゆる権威と力」を有する神の子を見出していくのか、それは、私たちの人生に大きな違いをもたらすのである。

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