詩篇72篇

72篇 メシヤの王権
 おはようございます。ソロモンの作か、ダビデの作かで議論のある詩篇です。しかし、メシヤ詩篇として読むのが、最も納得のいくところでしょう。そしてメシヤに倣い、神の御前に謙虚に、神のあわれみをもって、指導権を発揮していく。そこに人の上に立つ者の姿があるように思われます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈
新改訳2017になって、表題は、「ソロモンによる(第三版)」から「ソロモンのために」と訳が変更になっている。それは、締めくくりに、「エッサイの子ダビデの祈りは終わった」(20節)とあることを理由としている。確かにギリシヤ語の七十人訳では、「ソロモンのための」とされており、ヘブル語の本文でもそのように解釈することは可能である。そして最後には、「ダビデの祈りは終わった」とあり、詩篇の第二巻が締めくくられている。ただし、収録された詩篇は、ダビデだけによるものではない。ダビデは第二巻の主たる作者であり、ソロモンが作ったことを否定する理由もないので、判断はなかなか難しいところである。
 というのもソロモンがこれを作ったのであれば、ソロモンが自分自身の王となった時に、その召しの高さを覚えてこれを綴ったと理解できるし、確かにこの詩篇は、ギブオンで、ソロモンが祈った王の理想像(1列王記3:6-9)によく似ている。だが、ダビデがこれを作ったとなれば、後継者に対する最も願うところをまとめたと考えることができるだろう。ただ、義もあわれみもない過ちを犯したダビデが、果たしてこのような詩を作りえたのか。いや、そうであったからこそ、自戒的に作り得たのだ、とも言える。実際ダビデは、自身の過ちの根本にあわれみのなさがあったことを認めている(2サムエル記12:6)。そしてこの詩も、王が王であることを祈り求めている中で、王が神の義の実現者であることを祈り(1-4節)、義による終わりなき統治を願っており(5-11節)、それが結局、王のあわれみ深さによって実現するものであることを中心に据え語っている(12-14節)。となれば、ダビデの経験に裏打ちされ、最も彼の言いたいことを凝縮した詩篇と理解することができるのだろう。
いずれにせよ、この詩は、人の上に立って国を治める者が、どうあるべきか、そのポイントが、義とあわれみにあることを教えている。
2.メシヤ詩篇として読む
さて、この詩篇をメシヤ詩篇として引用している新約聖書の箇所はない。しかし、これを万物の王であるキリストを預言するメシヤ詩篇として理解することが、最もふさわしいことなのかもしれない。描かれている王の姿とその領土は、イザヤ書の預言によく似ている(イザヤ11:1-5、60-62章)。もし、イザヤ書のその部分をメシヤ的に理解するのであれば、この箇所も同様に理解してよいと思われる。つまりこの詩篇は単純に地上の王ソロモンの王たる心得を述べたものではなく、人間が到達し得ないメシヤの統治を歌うものとして読むことができる。
そこでまずこの詩篇は、正義によって王国が統治されることを祈っている。「あなたのさばきを王に、あなたの義を王の子に授けてください。彼が義をもって、あなたの民をさばきますように。公正をもって、あなたの苦しむ民を」(1、2節)。それは人間的、主観的な正しさを超えた、神の義が与えられ、公正な裁きができるように、ということだ。ダビデが失敗したのもそこである。義も人それぞれであり、謙虚さを欠く王の義は主観的である。そして正義はしばしば力にすり替えられていく。そうであってはならず、人間は人間の限界を弁え、ただ神の義の実現を恐れつつ追及する者でなくてはならない。
 そして第二に、「海から海に至るまで、川から地の果てに至るまで、王が統べ治めますように」(8節)とあるように、全世界に及ぶ神の主権が祈られている。タルシシュは、今で言えば南部スペイン、シェバはサウジアラビア、セバはエチオピアとされる。「すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えるでしょう」(11節)。全世界に及ぶ王権は、イエス・キリストにおいてのみ成就した。注目すべきは、その主権が策略によるものでも、人間的な世襲によるものでもなく、実際のあわれみに満ちた善政の中で生まれてくる点である(12、13節)。まさに、神のあわれみに生き、罪人のためにいのちを捨てられた、神の子キリストによってそれは実現した。主イエスにこそ、真のあわれみがあり、いのちの贖いがある。
最後に王の祝福が祈られる(17節)。御子によって世界が祝福されるように祈る。まさに「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」と締めくくる、主の祈りを祈るごとく、御子の栄光を祈るのは、御子が救い主であればこそである。
私たちにとって必要なのは、この地上にあって上に立つ者を認め、祈ることのみならず、目には見えないが、主権をもってこの万物を統治しておられるメシヤをはっきりと認め、そのメシヤに栄誉を帰すことである。今日も、主の栄光をまず仰ぎ、主をたたえ、主にお仕えする者であることを、心に留めて歩ませていただきたい。

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