ルカの福音書5章

4章が神の子であるイエスを、サタンや悪霊が認め、故郷の人々は認めなかった、と書き記しているとしたら、5章は、イエスが、具体的にご自身を神の子として示した、いくつかのしるしと、その神の子の招きに応じてイエスの弟子となった者たちを記録している。

最初の奇跡は、大漁の奇跡である。当時の漁は、夜間に、しかも浅瀬で行えば、よい結果が出ると考えられていた。しかしその日は、何の収穫もなかった。そこにイエスが現れて、常識的な理解を覆すアドバイスを与えられた。イエスはこの日中に、しかも深みで漁を行うように勧められたのである。ペテロは従ったが、その従順は、本心によるものではなかったようだ。英語のキングジェームズ訳の聖書は、そんなペテロの心をのぞかせる。つまり、イエスは、複数の網(netsの複数形に注意)を持って行きなさいとペテロに語っているが、ペテロは網を一つしか持って行かなかった(netの単数形に注意)。既にペテロはイエスと師弟関係にあったと考えられているので、ペテロとしては、聖書の教師が専門外の漁にまで口を出すなんて、という思いがあったのかもしれない。しかし彼は、その結果に驚かされる。ペテロと一緒にいた者たちも、イエスはどういうお方なのか、と畏敬の念に打たれていた。そんな彼らにイエスは「こわがるのをやめなさい」と語られる。彼らが一緒にいたのは、単に聖書を教える教師なのではなく、「主」と呼ぶべきそれ以上の何ものかであった、ということである。そして彼は人生の中で出会った最大の収穫を捨て、イエスに従う決心をしていく。それまで、魚を相手にして生きてきたペテロが、イエスの弟子となり、もはや魚を捨てて人間を相手に生きていくことを決心するのである。それは、大きなチャレンジであった。しかし、ペテロはイエスの招きに応えたのである。

12節、全身、ツァラアトの人が、イエスに癒やされている。ルカは、イエスの癒しが、主の御力によるものであること、つまり神の御力の現れであることを語っている(17節)。それはイエスの正体が神であることを匂わすものであるが、ルカはさらに明快に、イエスの正体に迫るエピソードを加える。つまり、中風の人の罪の赦しの物語である。ここでルカが注目させるのは、イエスは単に人の病を癒し、神的なパフォーマンスを披露した、ということではなくて人の罪を赦された点である。病の癒しであれば、祈祷師、治療師でもできることだろう。どんな宗教にもそういう奇跡話の一つや二つはあるものだ。しかし、イエスの特異性、キリスト教のオリジナリティは、罪の赦しにある。イエスは肉体の救いのみならず魂の救いをもたらしたのであり、十字架における犠牲が示すように、罪に打ち震えた魂を救うことがその中心的な働きであった。キリスト教には十字架への拘りがあるゆえんである。だから、イエスに反対する勢力、律法学者、パリサイ人たちも、神だけが罪を赦すことができるのであり、ご自分を神と等しくするイエスに反感を抱いたのである。しかし24節。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と、イエスは、意図的に、ご自分を神と等しくし、その権威を明らかにしている。イエスが神の子、主の主であるというのは、単に人を畏怖させるような奇跡を起こしたことではない、罪を赦す権威を持ち、それを執行されたことにある。そして同時に、イエスはダニエル書の特徴的なことば「人の子」を持いて、それが、旧約聖書の語る本来のメシヤ像であることを明確にされた。

27節から、もう一人の弟子、レビ(マタイ)の召しが描かれている。マタイは通行税か関税を課す税関であったと考えられている。当時、彼らは不正直なローマの協力者として嫌われていた。ユダヤ教で聖書に並んで大切にされる先祖の言い伝えを編纂したタルムードでは、取税人は強盗の類に数えられている。レビはそんな社会的評価を受けながら人生を歩んでいることに辟易していたことだろう。マイナス評価の中で人生を生きていくことほど息苦しいものはない。そんなレビにイエスは新しい人生を生きるチャンスを与えられた。イエスにマタイに対する偏見はない。イエスはマタイの可能性を正しく見抜いておられた。それが神なのだ。神は罪人の罪を赦し、変えられた罪人の可能性を知っておられる。まさに、イエスは、罪人を招いて悔い改めさせ、そして悔い改めに基づく新しい人生を導かれるために来られたのである(32節)。イエスはマタイに「わたしについて来なさい」と命じられた。マタイはイエスに従った。ペテロにとっても、大きな人生の方向転換であったことだが、マタイはそれ以上と言わなくてはならない。漁にはいつでも戻れても、取税人の仕事は簡単には復帰できなかったことだろう。しかし、マタイの決意の確かさは、大ぶるまいによって明らかにされた。主を見出した素晴らしさは、いかなる財産にも代えることができない。

イエスの弟子たちは明らかに、イエスに従うことに喜びと祝福を感じていた。それは、ヨハネの弟子たちとは対照的であった。人々の目には不思議に映った。しかし、新しいぶどう酒は新しい皮袋にという、新しい時代が来ていたのである。イエスの到来は、これまでのユダヤ教の延長ではなく、旧約聖書に基づきながら、全く新しい神のいのちを伝えるものであった。今までの古着にぬくぬくしていたら、新しい意識も、新しい行動も生まれないことだろう。ペテロも、癒された人々も、そしてレビも、今あるものを捨てて、主に従う決意を持って新しい一歩を踏み出したのである。そしてこの一歩がまさに、神の御国を建て上げる礎となっていく。私たちも今日、新しい一歩を踏み出すこととしよう。

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