詩篇97篇

97篇 いよいよ敬虔に

おはようございます。第四巻の流れを見ていく時に、これも終末的な主の権威を仰ぐ詩篇と読むべきなのでしょう。そして主を王として生きていくことは、すなわち今の世に置いて、敬虔な歩みを大事にしていくことを意識させられるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

ギリシャ語七十人訳聖書では、「この国が確立された時の、ダビデの歌」とある。しかしこれがダビデの作なのかどうかは、はっきりしておらず、捕囚期後、エルサレムが再建された際に作られたものではないか、と考えられている。というのも、2、3節「雲と暗やみが主を取り囲み、…火は御前に先立っていき」は、主の正義が、国々を支配し、主の御旨がこの地になされることを語っており、出エジプトをイメージさせるものがある。詩人は、このイメージを新しい出エジプト捕囚帰還に重ねて語り、またもや神の正義、神の御力、神の栄光が現された、私たちの主は力強い。主の正義は真実である、と賛美しているわけである(7節)。「シオン」は、エルサレム第二神殿の丘を、「ユダの娘たち」は、ユダのエルサレム近辺の村落を指す。実に捕囚からの帰還は、あり得ない出来事。考えもつかない出来事であり、喜び、こおどりすべきことだ、というわけだ。

ただ、そのように決定づけてこの詩を読んでよいのだろうか、と思うところもある。構造的に1-6節は、ある特定の時代の出来事を踏まえているというよりも、ただ、主が自然界にご自身をありのままに現わされた状況を語っているに過ぎない、と読むこともできる。「雲」と「暗黒」(2節)「火」(3節)、「稲妻」(4節)は、嵐と雷雨をイメージさせる。「山々はろうのように溶ける」は、火山の噴火を意味するのだろう。となれば、詩人は、ただ人間の手も足も出ない自然界のすさまじい脅威の背後に、神があることを認め、その権威を認めている、と言うこともできるだろう。

1節「島々」と訳されたヘブル語はイー、「沿岸」とも訳されており、パレスチナから見た地中海やエーゲ海の島々と沿岸地方を総称する。つまり地の果てに至るまで、主がこのような力強い王であることを、認め、喜べ、というわけである。

2.主の敵と主の民に対する勧め

後半、二つのグループが想定されて、勧めがなされている。主を認めない者と、主の民である。主を認めない、偶像崇拝者、偽りの神々を頼る者には、主を認め、主にひれ伏せ、と勧められる。主が万物の支配者であることは、被造物の現象にはっきり見て取れる、というわけであろう。そして主を認める主の民に対しては、主を崇めるのみならず、10-12節において、倫理的な勧めがなされている。悪を憎め、敬虔であれ、と。

これまでの第四巻の流れからすれば、これも前の96篇につながる終末的な詩篇と理解すべきなのだろう。つまりヨハネは、「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい(黙示22:11)」と語ったが、9節、全世界の統治者主を賛美する時に、今この地上における最善の営みは、いよいよ主の聖さに与っていくこと、悪を憎み、敬虔であることになるのだ。パウロも「敬虔のために自分を鍛錬しなさい(1テモテ4:7)」と語っているとおり、主を愛し、主にお会いする日を心待ちにする者であるならば、いよいよ自らをそれにふさわしく整えることに心を配るはずである。そのような人々に世の事柄は二の次になるのだ。もちろん、罪の世においてそのように生きることは難しいことである。だが、主は、「敬虔な者たちのたましいを守り」「悪者どもの手から彼らを救い出される」と詩人は励ます。そして、私たちが正しい道を歩むことができるように、絶えず光が注がれている。大切なことは、この主に心を向け続け、主を喜んで生きるかどうかなのである。

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