詩篇118篇

118篇 主はいつくしみ深い

おはようございます。全体が、神殿の門から入り、祭壇の前に進むまでの、いわば、礼拝の流れをイメージさせるものとして語られています。そこには、感謝と喜びをもって神の御前に出る姿があります。礼拝は、主への感謝、喜びを献げる営み。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈

詩篇113-118篇は、一つに取り扱われ、過ぎ越の祭りに歌われた。確かに、この詩は、礼拝者が神殿の門から入り、神殿の中庭へと進み、祭壇の前に進むまでの流れに沿った内容となっている。また、神殿聖歌隊のリードによって、神殿に集う群集が自らの信仰の確信を歌にして交互に応答する交唱歌として歌われたと思われる。詳しくは、わからないが、例えば、神殿聖歌隊が「主の恵み」を共に仰ぐかけ声をかけ、「主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い。主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりも良い」(8-9節)と、会衆が合唱をもって応答する、その繰り返しによって詩篇118篇は構成されている、わけだ。

三段落目、10節から神殿聖歌隊が呼びかける。「すべての国々が私を取り囲んだ」(10節)「彼らは私を取り囲んだ」(11節)。「鉢のように、彼らは私を取り囲んだ」(12節)「おまえは私を激しく押し倒そうとした」これは捕囚期間後の神殿再建の苦労を語っているのだろう。その時、イスラエルの民は、周囲の国々に種々様々な形で妨害された。それは全く気力を削ぐようなものであった。しかし、彼らは神の恵みによって守られ、再建の夢を果たすことができた。「主の御名によって、私は彼らを断ち切る」(10、11,12節)。「主が私を助けられた。主は私の力、またほめ歌。主は、私の救いとなられた」は、群衆の応答である。

15-18節は、聖歌隊と群衆の間で確認された主にあってもたらされた勝利の歌である。本来は、滅ぼされて当然の者たちが、完全に滅ぼし尽くされる事はなかった。神は、イスラエルを裁かれて、投げ出すことはなかった。捕囚の地から帰らせ、神殿を再建させ、もう一度回復させてくださった。主がのばされた御手の恵み深さが思い起こされる。

19節からは、群集が門をくぐり神殿の中庭に入る状況をイメージしてよい。レビ人が先唱する「義の門よ。私のために開け。私はそこから入り、主に感謝しよう。」そこには神殿に入る条件が語られている。

2.新約の引用

22、23節は、イエスによって引用されている(マタイ21:42)。イエスが何の権威によって、種々の業を行っているのかを祭司長や町の長老たちが問題にした時に語った言葉である。イエスは人々から見捨てられ、十字架の死を背負わされた。しかし、その後ペテロがこのことばを再度引用して、その意味を解き明かしたように、まさに捨てられた石であったイエスが神の御力によって復活させられ、教会の礎の石とされた(使徒4:11-12)。26節は、マタイが、イエスのエルサレム入場を迎えた群衆のことばとして引用している(マタイ21:9)。実に、主の救いをもたらす、栄光の主の入場を、群衆たちは迎えた。彼らにその意識はなく、その後イエスは十字架へ向かうのではあるが、それは預言的な歓迎となった。

礼拝は、実に、イエスを主と認め、イエスの十字架の赦しにあって神に近付く素晴らしい恵みの機会である。その神を拝する礼拝の恵みの時が与えられている。たとえ気力を削がれ、希望を失うような事態に陥ろうと、捨て石とされようと、そこから復活の奇跡を成し、祝福に満ちた新しい人生へと励ます主がおられる。その主を拝する時なのである。

27節は、神殿への入場を果たし、祭壇の前まで進み出た場面を語る。心から神への感謝をもって礼拝に集い、その喜びをもって神の御前に近づく様子がイメージされる。主に感謝しよう。主をあがめよう。確かに、主はまことにいつくしみ深く、その恵みはとこしえなのだ。教会の門をくぐったなら、まず神を静かに仰ぎ、神とよき時を過ごすことを覚えたい。

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