箴言9章

9章 二つの宴会、二つの対象

おはようございます。知恵を巡る議論が、この9章で一区切りとなります。10章からは教訓集というべきものになります。最後のまとめで注目すべきは、二つの宴会と二つの対象です。私たちが残り少ない人生の時間を何に費やしていくか、よくよく教えられるところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.二つの宴会

ようやく、知恵を巡る教訓が、一段落する。この章が一つの区切りで、9章以降は格言集になる。そこで知恵についての議論は、最後に、二つの宴会を対比して述べられている。4節、16節の共通のフレーズ「浅はかな者はみな、ここに来なさい」に注目しよう。知恵が主催する宴会(1-6節)と愚かな女が主催する宴会(13-18節)が対比されている。

知恵は、最良の生け贄を用意し、浅はかな者、思慮のない者を自分の家に招こうとする。誰でも、知恵を得て歩めと。一方愚かな女も同様に、思慮に欠けた者たちを招くのであるが、宴会のごちそうは、盗んだものである(17節)。同じように準備されてはいるが、盗んできたものだから、そこには当然罠があり、死がある。だから知恵の食卓はいのちを約束するが、愚かな女の食卓は、よみの深みを約束する。

そこでこの愚かな女の宴会は、性体験を暗示していると解説されることが多い。確かに童貞を捨てる、処女を捨てる性体験は大人になり、賢くなる儀式、という話もあって、そんな愚かな考え方への警告と理解できるところもある。しかし、何も性体験に限る必要もない。盗んだもので準備されたビジネスに虜にされる出来事もあるものだ。本来通るべきプロセスをすっ飛ばして、特急レジで進むだけだと、賄賂で進んでいく仕事にうつつを抜かしてしまう人生もあるものだろう。気が付いた時には、犯罪のお先棒を担がされて、お縄になってしまった、そんな出来事は新聞誌上に珍しくもない。盗んだ水は甘いという罠は様々である。

2.教育すべき人

そしてさらなる教訓。教育すべき人を見極めよ、とある。目をかけて、教えるならば、嘲る者ではなく、知恵のある者、正しい人にせよ、という。

その性質に、嘲る心のある者、悪しき思いのある者、そのような者を教育し、訓練しようとする努力は無駄である。彼らは自分の知恵に固執し、いかなる形の指導も、訓戒も受け付けない。父親のように彼らを養おうと愛情深く接し、語り掛けても、その結果は、怒鳴られるか、悪態をつかれるか、憎しみを込めて殴られるかである。面目を潰され、深く傷つけられるだけだ。イエスのことばを借りて言えば、「聖なるものを犬に与えてはいけません。また真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。」(マタイ7:6)ということである。そのような関係を繰り返してはならないし、そのような関係からは距離を置くことだ。

ソロモンは、国家を建て上げるために、教育をせねばならなかった。どのような者たちに、自分の時間と力を注ぐべきか、それは、知恵のある者、正しい人である。教会を建て上げることも同じで、知恵ある人、正しい人をこそ叱り、与え、教えることである。

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