ルカの福音書13章

「ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人に混ぜた」というのは、ガリラヤ人がいけにえの血を祭壇に注いでいた時に、ピラトの部下たちに襲われて、死傷した者たちの血がそのいけにえの血に混じってしまった事件を指している。この時、エルサレムでは、供給水量の増大を計る必要が生じ、水道の建設計画が持ち上がっていた。ピラトは、その費用をまかなうために、神殿にあるお金に目をつけたのである。ところが神殿のお金をそのような事業に使うのは間違っていると、ユダヤ人たちは反対した。ピラトは集結したデモ隊をこん棒でぶちのめし、退散させようとしたのであるが、実際には、はるかにひどい暴行となり、かなりの数の死傷者が出、その中にガリラヤ人も含まれたのである。

また、シロアムの塔が倒れて圧殺された18人の事件は、この水道工事中に災難にあった人々のことを言っている。神殿に納められるべき金で稼いでいた人たちが犠牲になったので、塔が倒れて死んだのは、彼らがその仕事に同意し、神のものを盗んだから、神の裁きを受けたのだ、というわけである。

イエスが指摘する問題は、ユダヤ人たちが、不幸を最大の罪と関連づけて考えたことにある。これは、何か不幸が起ると「罰があたったのだ」「神の裁きだ」と考える私たちと同じようなものである。しかしイエスは、そのような発想を否定した。イエスの考え方からすれば、不幸に見舞われたからといって、その人はそれだけ罪深いというのではない。むしろ、「悔い改めないなら、みな同じように滅びます」とあるように、罪深いという点では、人は誰も同じで、悔い改めがなかった、ことが問題なのである。

そして、6節以降のぶどう園のたとえは、忍耐を持って悔い改めを待ち望んでいる神が、その忍耐にリミットを設けておられることを語る。神は悔い改めない事への刑罰を遅らせているが、その機会はいつまでもあるわけではない。事実実を結ばない木は、それ自体の問題にとどまらず、他のやり方をすれば成果があがるかもしれない土地をふさいでしまうのである。

ユダヤ人たちは、罪の結果に対しては裁きがあることを語った。イエスもそれは否定しない。しかし、いずれタイムリミットは来るのである。ただ、神は罪人を無下に滅ぼすような方ではなく、悔い改めを期待しておられること、罪人に哀れみ深くあることをここで語られるのである。

18年も病の霊につかれた女性を、イエスは手を置いて癒やされた。ただ神のあわれみの故に、私たちの人生は不毛の中から救い出される。大切なのは「呼び寄せられる」神の招きに応えるかどうかである。悔い改めは、神の招きの言葉に応じることに他ならない。

18節以降、神の国のたとえ話が続く。からし種のたとえとパン種のたとえである。前者は、御国が世界中へ広がることをたとえ、後者は、その広がりは、内側にある力によるものであることをたとえている。つまり、18年も病の霊につかれた女性を癒したことで、的外れな安息日論争が起こっているのだが、人々は、安息日にその癒しが起こったことを問題にするよりも、神のあわれみが示され、神の御業がなされ、御国が来ている事実に注目することに気づかされているのである。人々は、「イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ」つまりそこに、主の御名によって来られる方が来ていること、神の支配が正しく現されていることに気づき始めたのである。それを受けて、イエスは御国が広がり、その影響力がご自身にあることを語っている。

そこで22節以降は、御国に入ること、また御国の計画の実現のために、イエスが十字架を目指してエルサレムへ向かっていることが語られる。預言者はエルサレムで死ぬからである。

「わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません」(33節)イエスの御国の宣教は粛々と進められていた。きょうもあすも、次の日も、着実に福音は語り告げられ、悔い改めの機会はいつでも与えられている。問題は、その招きに敏感に応じる魂がどれほどいるかである。家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまってからでは遅いという。もちろん、象徴的な言い方である。主題は、再び最初のガリラヤ人の血とシロアムの塔でのものに戻って来ている。全ての時にはリミットがある。しかし、神は哀れみ深く悔い改めを待ち望んでいる。「入ろうとしても、入れなくなる人が多い」(24節)という時が来る前に、私たちは熱心に主のあわれみを求めなくてはいけない。自分の救いの完成にこそ努力すべきである。そこに、私たちの祝福もあるのだから。ルカの福音書14章

「みんながじっとイエスを見つめていた」とある。「見つめていた」という言葉には、「悪意ある目で観察する」という意味がある。イエスはチェックされていた。何ともいやな目つきである。何でもねじ曲げて物事を捉えてしまう目つきである。しかし、イエスは、そんなパリサイ人や律法学者たちの敵対的な視線にためらうことなく、むしろその魂胆を見抜いて男を癒していく。安息日に動物を助けることが正しいのに、人間を助けることがいけないこともなかろう。そもそも安息日は人の益のために設けられたのではないか。安息日を守ることに人が縛られて、人が不自由を強いられるのはどういうことか。誰も答えることのできる者はいなかった。

続いてイエスは、招かれた人々が上座を好んで末席に着きたがらない客の振舞を問題にした。ユダヤ人にも日本人と同じようで、上座、上座への拘りがあるようだ。席の取り合いで面目を失うよりは、最初から「上座の方へどうぞ」と言われるような席の選び方をした方がよい。イエスは、純粋に遜った振舞をするように教えている(11節)。

第三に、イエスは、自分を招いてくれた人に向かって、語られた。人を招待する気前の良さを見せようというのであるなら、貧しい人、体の不自由な人、あしのなえた人、盲人など、お返しのできない人を招きなさい、という。人間的に得する関係に、与えても気前が良いとは言えない。その報いはその場で受け取っているからである。神の報いを受けようとするなら、後の日、復活の日にそれを期待すべきである。

イエスが復活に触れたことに刺激され、客の一人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と声を上げた。この世で気前よく振舞、多くの人を助け、恵みを施し、やがて神に栄誉を帰せられる人の幸をイメージしたのだろう。しかしイエスは語る。その日に招かれておりながら、実際にその招きに応える者はひとりもいない、そんなことが起こるだろう、と。完全なたとえである。宴会に招かれていながら、実際に宴会の時が来ると、その招きを断り始めることが起こる。しかも、見え透いた嘘のような断り方で断り始める。イエスは何をイメージして語ったのか。

考えられることは、神は預言者たちを通してユダヤ人を招かれたのだが、今やイエスにおいて二度目の招きをしたところ、パリサイ人も律法学者たちもその招きを拒否した、ということだろう。だから、その招きは、彼ら以外の者に向けられる。そしてルカがこれを書いた時期は、AD60年代以降で、ルカの福音書は明らかに民族的差異を超えた普遍的福音を語ろうとしているのであるから、ここには、イエスの招きを拒んだユダヤ人を前提に、神の招きは異邦人や罪人たちに向けられたことを語っているのだろう。ルカが、イエスのこの教えを取り上げた意図は、初代教会の面々に教会の使命は異邦人に神の招きを伝えることにあった、と考えられるのである。

ともあれイエスは新しい宣教のターゲットを示した。しかし、その新しい聴衆に向かって言う。軽率に弟子になったりせずに、弟子になることの意味やその犠牲をよく考えるべきである、と。イエスに弟子入りしようとするなら献身せよ、と語る。献身無き弟子入りは、「塩気を無くした塩」と同じである。あなたの献身に熱を込めよ、とルカは言う。

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