ルカの福音書14章

「人々はじっとイエスを見つめていた」とある。「見つめていた」という言葉には、「悪意ある目で観察する」という意味がある。イエスはチェックされていた。何ともいやな目つきである。何でもねじ曲げて物事を捉えてしまう目つきである。しかし、イエスは、そんなパリサイ人や律法学者たちの敵対的な視線にためらうことなく、むしろその魂胆を見抜いて男を癒していく。安息日に動物を助けることが正しいのに、人間を助けることがいけないことはない。そもそも安息日は人の益のために設けられたのではないか。安息日を守ることに人が縛られて、人が不自由を強いられるのはどういうことか。誰も答えることのできる者はいなかった。

続いてイエスは、招かれた人々が上座を好んで末席に着きたがらない客に気づいてこの振舞を問題にした。ユダヤ人にも日本人と同じようで、上座への拘りがあるようだ。ただユダヤ人のこの時の上座のイメージは、日本人には湧きにくい。当時は低い食卓を使った。客は左ひじをついて横たわり、もっとも栄誉ある位置は、中央の席、そして第二は主賓の左側(主賓の背後に横たわる)、第三は主賓の右側(主賓の胸の位置に頭が来る)、以降順次右側となっていたようである。どこに横たわるかの上座の取り合いは、確かに見苦しい状況があったと言える。ともあれ、席の取り合いで面目を失うよりは、最初から「上座の方へどうぞ」と言われるような選び方をした方がよい。イエスは、純粋に遜った振舞をするように教えている(11節)。

第三に、イエスは、自分を招いてくれた人に向かって、語られた。人を招待する気前の良さを見せようとするなら、貧しい人、からだの不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人など、お返しのできない人を招きなさい、という。損得を考えながら、得する相手だけに与えても気前が良いとは言えない。その報いはその場で受け取っているからである。神の報いを受けようとするなら、後の日、復活の日にそれを期待すべきである。

イエスが復活に触れたことに刺激され、客の一人が「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と声を上げた。この世で気前よく振舞、多くの人を助け、恵みを施し、やがて神に栄誉を帰せられる人の幸をイメージして声をあげたのだろう。しかしイエスは語る。その日に招かれておりながら、実際にその招きに応える者はひとりもいない、そんなことが起こるだろう、と。宴会に招かれていながら、実際に宴会の時が来ると、その招きを断り始めることが起こる。しかも、見え透いた嘘のような断り方で断り始める。イエスはたとえ話を始められた。何を言おうとしたのか。

考えられることは、神は預言者たちを通してユダヤ人を招かれたのだが、今やイエスにおいて二度目の招きをしたところ、パリサイ人も律法学者たちもその招きを拒否した、ということだ。だから、その招きは、彼ら以外の者に向けられる。ルカがこの福音書を書いたのは、AD60年代以降で、もうキリスト教は地中海沿岸地方一体に広まっていた。そしてルカは明らかに福音が生まれたユダヤ民族の枠組みを超えた普遍的福音を語ろうとしていた。だから、イエスの招きを拒んだユダヤ人を前提に、神の招きは異邦人や罪人たちに向けられた、事実に読者の目を向けさせているのである。ルカが、イエスのこの教えを取り上げた意図は、初代教会の宣教の目的は、異邦人に神の招きを伝えることにあった、と言えるだろう。

ともあれイエスは新しい宣教のターゲットを示しておられる。しかし、その新しい聴衆に向かって言う。思慮もなく軽率に弟子になったりせずに、弟子になることの意味やその犠牲をよく考えるべきである、と。イエスに弟子入りしようとするなら腹をくくって献身せよ、と語る。献身無き弟子入りは、「塩気を無くした塩」と同じである。あなたの献身に潔さと熱を込めよ、とルカは言う。

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