ルカの福音書15章

取税人、罪人たちは、社会のつまはじきであり、パリサイ人や律法学者たちには相手にされない人たちであった。しかしイエスは違っていた。イエスは、彼らを受け入れ、神の国の福音を語って聞かせたのである。彼らはイエスの話に耳を傾けた。そこで三つのたとえが語られる。

第一に迷子の羊のたとえ。羊は迷子になり易い性質を持っていて、羊飼を必要とする。当時、一匹でも羊がいなくなることがあれば、それが野獣に殺されたと証明されない限り、羊飼いはその責任を負わなければならなかった。羊飼いの不注意が責められ、お金で弁償させられた。だから羊飼いは熱心に探し出し、見つけた時には大喜びしたのである。イエスは、そんな羊飼いの熱心さを、失われた人を探しだそうとする神の熱心さに重ねて、たとえを話された。神は、一人の罪人が悔い改めて立ち返ることを熱心に望んでおられる。

第二に銀貨のたとえ。これも神の失われたものへの熱心さと回復の喜びを語っている。ユダヤ人の女性は結婚指輪の代わりに、銀貨10枚で造られた髪飾りをつけたと言われる。だからその内の1枚をなくしてしまうことは、不幸なことであった。暗い家の中、明かりをつけて探し出し、見つけた時の喜びは大変なものであっただろう。

第三のたとえは、放蕩息子のたとえと呼ばれてよく親しまれている。神の愛のたとえとも呼ばれる。強調は息子の罪よりも、神の愛にあるからだ。はじめの二つのたとえと違うのは、探し見出そうとする父親の熱心さよりも、父親の愛の記憶によって、放蕩息子が自ら悟り悔い改めていくところに焦点があることだ。つまり、イエスの意図は、罪人や取税人に決心を促すことにある。はじめの二つのたとえで、神の罪人や取税人に対する熱心さを語り、神がいかに悔い改めを求めているかを語り、ここで一気に、応答を迫っている。

放蕩息子は、思慮もなく無謀な旅に出、当然の結末に行きついた。彼は仕事を探したが、働き口は簡単には見つからなかった。結局、ユダヤ人は豚を忌み嫌うが、その豚の世話をする最悪な状況にまで落ちぶれてしまうのである。罪は、私達の内側にある神のイメージを台無しにし、内面の野獣性をそのまま解放する。もはや彼は自分を見失っていた。「誰も彼には与えてくれなかった」とあるように、彼はすっかり評判を失っていたのである。悔い改めは、そのようなありのままの姿を認めるところから始まる。そして自分の心の向きを180度変えていくことである。本来このような放蕩息子は申命記の規定(21:18−21)によれば石打ちで殺されるべき子であった。しかし父親は、そのような息子に一目散に駆け寄った。つまり一緒に石打される覚悟で息子の帰りを受け止めた。そこに神の愛が表されている。

同時に、兄に象徴される律法学者とパリサイ人への父の愛も語られる。兄は確かに感心な、働き者であって、家庭にもその村にも何一つ不名誉なことはもたらさなかった。放蕩息子に比べたらほとんど聖人である。しかし、この兄に弟に対する愛はなかった。兄も学ばなくてはいけなかった。父が弟息子を愛したように、兄も家族を愛することを学ばなくてはならなかった。父の喜びを共に喜んでこそ、父をよく支える兄になれたのである。

私たちも、成熟しなくてはいけない。兄に象徴される律法学者やパリサイ人のように、自分の正しさに居座ってしまう愚かさから脱皮しなくてはいけない。私も不完全である、そういう自覚がなければ、人は変われない。愛されるだけではなく、愛することを私たちも学ばなくてはいけないのである。そして、父の姿に倣う神の愛に生きることが、私たちの究極的な姿でもある。結局、神の愛の物語は、私たちに、「天の父が完全であるように、完全でありなさい」(マタイ5:48)という言葉を思い起こさせ、悔い改めの実を結ばせる決意にまで至らせるのである。

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