イザヤ書43章

43章 造り主の愛
おはようございます。イスラエルに対して創造主としてご自身を現わされる神が、ご自身の深い愛を語り伝えているところです。キリスト者の務めは、何よりも神の愛を深く味わい知るところにあります。そこに証も生じるからです。知り、語るの順を大事にしたいところです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.恐れるな
先に「しもべの歌」(42:1-9)、そして「嘆きの歌」(42:18⁻25)を読んだ。本書は、それらを前提にしている。神を神として敬うこともなく、退けてきたイスラエルに、神は変わらぬ愛を語り掛けている。その深さはどこから来るのか。明らかなことは、神が父であり、創造者である、ということだ(1節)。
2節は、具体的に、ノアの洪水、航海渡渉、ヨルダン渡河などのイスラエルの歴史的な出来事を種々思い浮かべるところであるが、文脈からして強調されるべき点は、創造者である神が、「あなたとともにいる」という点である。そして神はイスラエルの民のために戦われる。3節は、エジプトがペルシヤに滅ぼされた歴史的出来事を想定しているようだ。ともあれ神はイスラエルを大事にし(4節)、これを特別に扱われてきた。それは選ばれた民が、神ご自身の何であるかを知るためであった(10節)。まず、神を深く味わい知ること、それが神がイスラエルに対して持っておられる願いであり、それは、同時に、神が唯一であり、救い主であり、全能者であることを証することになるのである。この神以外に救いはない、と。
2.バビロン滅亡の予告
13、14節は、バビロン滅亡に関する予告である。愛するイスラエルのために、積極的に戦われる神の姿がイメージされる。それは一度限りではない。繰り返される歴史的な事実であると言うかのように、16、17節、エジプト紅海渡渉の歴史的事件が取り上げられる。
18節「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う」神のなさることは常に人の思いを遥かに超えている(19節)。そうであればこそ、神の栄誉を語り伝えずにはいられない(21節)、ということだろう。神を味わい知ることは常に宣教と表裏一体なのである。
22節以下は、そのような偉大な創造主のケアを受けながら、その神に背を向け続けてきたイスラエルが見捨てられずにいること、そしてそれは、全く神の愛と恵みに基づいていることを語る。神がイスラエルを選ばれたのは不合理な愛の結果である。だから、神は理屈なしにイスラエルを愛し続ける。何ら神の期待通りに生きることもなく、反逆を繰り返すイスラエルを赦すのは、彼らの善行のため、経歴のため、苦労のためではない(25節)。ただ神は、自らが生み出したイスラエル(21節)を、愛される。
このイザヤ書を、メシヤ預言として解釈した初代教会は、明らかにこの愛が、私たちにも同様に注がれていることを確信していた。恐れるな。主は、あなたとともにいる。あなたに対する主の愛は深い。主の愛を味わえば、自然に証しも備わるのである。

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