イザヤ書53章

53章 苦難のしもべ
おはようございます。苦難のしもべと呼ばれる預言であり、私たちのたましいの救いに深く関係する箇所です。かつて伝道者ピリポは、これをイエスについて物語るものとして、エチオピアの宦官に説明し、彼を救いに導きました。重要なメシヤ預言を理解したいところです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.53章の読者
 52章からの流れで読むならば、読者はアッシリヤの脅威の中にあってこの書を手にしていた、と考えることができる。実際イザヤは、アッシリヤの大軍の前で、無力さに嘆く王ヒゼキヤの時代に生きていた。しかし、52章は、そのイスラエル北王国の回復というよりも、更に後の時代のバビロン帝国によって滅ぼされたユダ南王国の回復を想定しているようである。それは当時の読者にとって、まだ先の遠い将来の話である。しかしながら、ここで語られるしもべを、そのユダ南王国を回復させたペルシヤの王キュロスに当てはめることも難がある。そこでここも、二重預言として、さらに先の時代に起こりうるメシヤ預言と受け止めていくことが正しいのだろう。
2.しもべの特徴 
というのは、新約聖書の使徒の働きに、エルサレム巡礼の帰り道、この箇所を読み思索しているエチオピアの宦官が描かれている。彼はこの箇所が理解できないでいた。そこに突如現れた伝道者ピリポに「預言者はだれについてこう言っているのですか。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか(使徒8:34)」と尋ねている。そこでピリポは、答えて、これがイエスについて語っているのだと説明し、エチオピアの宦官を、イエスを信じる信仰に導いている。
注目すべきは、苦難のしもべが生きた人生とその目的である。彼は、蔑まれ、人々からのけ者にされ、尊ばれもしない、悲しみの人であった(3節)。彼は病を負い、痛みを担い、虐待され、砕かれた。彼の心に欺きも、不法もないにも関わらず(9節)。多くの人々は彼を誤解した。神に罰せられた人生を生きたのだ、と。しかし彼の人生は、人に癒しと平和を与える目的を持っていた。神は、彼にすべての者の咎を負わせたのである(10節)。それは、ピリポが解説したように、まさに2000年前、人の罪の赦しのために十字架を負ったイエスを物語っている。ユダヤ人をアッシリヤの捕囚から解放したキュロスを語るものではない。
3.イエスについて語る預言
ところで、エチオピアの宦官は、なぜ「キュロスか他の誰か」ではなく、「自分(預言者)か他の誰か」かと考えたのだろうか。彼はこの箇所を読み歴史を振り返り、キュロスが当てはまるものではないことに気付いていた。そこで、神のために苦労したイザヤか、それとも誰かかと考えたのだろう。しかしなぜイザヤなのか。彼もまた悲しみの人で、これを預言者と当てはめることで共感する読みを感じていたのかもしれない。そこでピリポは、神の目的に沿って高尚な人生を生き抜いたこの人物は、イエスであることを語り、聖書を正しく解き明かしたのである。これによって彼は、自分の悲しみを負ったイエスの救いを知るのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です