エレミヤ書2章

2章 エルサレムへの警告
おはようございます。昨日のメッセージに、年代的に不正確な部分がありました。修正しましたので、午前中に読まれた方はご確認ください。さてエレミヤの召命直後のメッセージが始まります。イスラエルの二股信仰への警告、それは私たちの信仰のあり様をも探るものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.イスラエルの背信
エレミヤは神の召しに立った。本章から6章は、おそらく召命直後、ヨシヤ王時代に語られた初期の預言である。2節、「あなたの若いころ」「種も蒔かれていなかった地、荒野での」は出エジプトから、シナイ契約締結までの期間を指している。その時、イスラエルはその貧しさや困難の中にあって誠実であり従順であった、と神はイスラエルの愛を認めている。が、今は違う。イスラエルは、新婚時代の愛と純潔を保つことなく、主の恵みを忘れこれに背き(5節)、もはや神を求めようともしなかった(6節)。それは、指導者たちだけの問題ではなく一般の民衆も同じで、彼らはさらに偶像礼拝の罪を重ねた(13節)。10節、キティムの島々は、パレスチナから見て西方を、ケダルは東方を示唆した。つまり古今東西を探してみよ「どこにかつて自分の神々を、神々でないものと取り換えた国民があっただろうか」ということだろう。そしてそのために「メンフィスとタフパンヘスの子ら」つまりエジプトに恥辱を受ける今の現実があるのではないか、と神は語る。「いったいどうしたことか」アッシリヤやエジプトとの外交政策によって国の安全を保つことが出来る、と考え、神を捨て去るとは、と言うわけである。
2.まことの神のみへの信頼
エレミヤの初期のメッセージには、先輩の預言者ホセアの影響があると言う。確かに、ホセアのメッセージと重なる部分がある。つまり、イスラエルは、姦淫の女に例えられている(25節)。「他国の男たち」はバアルの神々のことであり、イスラエルは、夫である主を捨てて、他国の男たちを追いかける女のように、宗教的に不誠実な状況にある、という。
しかも彼らはまことの神と偶像の二股をかけていた(27節)。バアルを神として祭りながら、困った時には聖書の神に祈り求めた。神と名の付くものはどれでも同じ、結局信仰は皆同じ、何であれ信心は尊い、ということはない。これは、日本人の信仰の持ち方への警告でもあるのだろう。日本人は宗教心はあるが信仰心はない、と言われる。宗教や信心は大切であると考えるが、何を信じるかは問題にしない。むしろ信じる対象を一つに絞って信仰することには抵抗感がある。だから、家には仏壇もあれば神棚もあるし、聖書も置かれていて、よしとなる。だが信じるべきまことの神は、ただお一人である。
ヨシヤの時代、アッシリヤの国力は急速に衰え、それに代わってエジプトが一時シリヤ、パレスチナの支配権を握った。イスラエルの指導者は、そのような時流を読んで、エジプトとの関係を良好にすべきと考えたのだろう。けれども時代の動きをコントロールしているのは神であり、その神をないがしろにした行動に実りはない(37節)。このCOVID-19禍においても、表層的な時代の動きに踊らされず、まことの神に聞き従う者であろう。

“エレミヤ書2章” への2件の返信

  1. エレミヤ書から読み始めました。感謝です。

    「バアルを神として祭りながら、困った時には聖書の神に祈り求めた」とは耳が痛いです。これは今の私です。

    一方で「神と名の付くものはどれでも同じ、結局信仰は皆同じ、何であれ信心は尊い、ということはない」については、納得できるものの、他の宗教で他の神を信じている方を否定できない気持ちもあります。
    仏教にも素晴らしい教えがありますし、そういうときには「神様は別の形で教えてくださっているんだな」と、無意識に都合よく解釈していたのです。
    これは「日本人だから」なのでしょうか。

    1. コメントいただきありがとうございます。宗教は、基本的に人間の究極的な救いを求めるものですから、どの宗教にしても、聞くに値するよい教えはあるものと思います。どの宗教も人間の心の真摯な問いに基づくものであるとすれば、それは否定されるべきものではなく尊重し、教えを乞うべきものと思います。ただ、世に比較宗教なる学問があり、祭儀・儀礼のみならず、その思想、神観、人間観、救済観、を比較してみると、やはり共通している部分、そして、それぞれの宗教に特徴的な部分、いわゆる違いがあります。キリスト教にあって他になきもの、つまりこれを取り去ったら、宗教とは言えてももはやキリスト教と言えなくなる部分は、やはりイエス・キリストの十字架による身代わりの死、つまり罪の赦しでしょう。これは、世のどの宗教にもない、キリスト教のオリジナリティであり、私は、この拘りに、心を捉えられ、キリスト教をよしとしている者です。人間は必ずどの人も同じ道を辿り死を迎えます。その時に、本当に神がおられてその裁き主の前に立つとしたら、どうなるであろうかと私は考えます。バカバカしい、死んだら終わりと一笑に附す人もおられるかもしれませんが、私は、万が一と考えます。今の世にあるものは何ももっていくことはできず(たとえ、お棺に三途の川を渡れるようにお金を添えられても、それを握っていくこともできず)、世の肩書も何も通じない、別世界におられる神の前に立つ状況をです。私は天地万物の造り主、支配者であり、裁き主である神の前に、手ぶらで立つなど恐ろしいことのように思います。しかしその時、十字架のキリストが、私の隣に立って、この人の罪の赦しのために自分が十字架にかかったこと、そして復活は永遠の命を与える約束として示されたことを、神に訴え、私のために天の御国の門を開いてください、ととりなしてくださるという、聖書のメッセージは、他のどの宗教にも聞くことのできない、大事にせねばならぬ教えがあるように思います。死後のことは、今自分で決める、御国行きは、お金でも、業績でも、善業でも、誰かの供養によるのでもなく、ただキリストの十字架の功績に信頼する、それがキリスト教の考え方で、日本人も受け入れられる教えかと思います。答えになっているかわかりませんが。求道の歩みが祝されますように。

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