ヨハネの福音書1章

この福音書を書いた著者は、実際には誰であるかはわかっていない。ヨハネ21:24を注意深く読むと、どうも編者のいたことがわかる。伝統的には使徒ヨハネが書いたと言われてきたが、彼が書いたとしても、これに加筆し、手を加えた者がいる。しかしだからと言って、イエスの深い心を語る本書の価値が下がるわけではない。著者は、自分を「イエスが愛された弟子」(21:20)と語るが、実は、本書の特色は、先の共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカと違って、個人に向かい合うイエスの姿が描かれているところである。本書にあるイエスは、群衆に語られるイエスではない。ニコデモ、サマリヤの女をはじめ、膝を交えて語られるイエスである。著者は、自分を愛するように、他の一人ひとりとも大事に向かい合われたイエスを描いている。

さて、1章の序論(1-14節)は、いささか神学的な書き方になっており、何やら深い考察を迫られる感のあるところだろう。この箇所の解説としては、エレミヤスが『新約聖書の中心的思想』で語っていることが、私としては納得がいく。つまり、なぜイエスがロゴス、ことばとして表現されたかと言えば、それは、旧約のマラキ以降、400年の沈黙を破る神のことばが待ち望まれた背景があったからである。確かに当時の人々は、神のことば、神の慰めを待ち望んでいた。しかし、それはマラキ以降、400年の間与えられず、人々の心には、主のみことばに対する飢え渇きがあった。その沈黙を破って、イエスが現れ、イエスを通して神の言葉は発せられたのである。創造の初め茫漠とした無秩序の世界に「光よあれ」と神のことばが発せられ、光ができたように、長きに渡り混沌とした人間社会に、イエスを通して神はご自身を現し、ご自身の恵みの福音を語られ、ご自身の御業を成し遂げられた。こうしてヨハネは、イエスが、神と等しい存在であることを明確にしている。

だからイエスは永遠の存在(1 節)であり、創造主であり(2,3節)、霊的な命を与えられるお方である(4,5,9節)。その命は単に肉体的なものではなく、人の知的、霊的な理解力、意識と良心の源となる命であった。当時のユダヤ人は、イエスをそれと認め受け入れることはなかった(11節)が、イエスは、これからの21章によって語られるように、神の栄光を証し(14節)、私たちを神の豊かな恵みへと導くお方である。それはまさに闇の中に輝き続ける光であり、受け入れるならば、その豊かな恵みに与ることになるだろう(12節)。

挿入的に記されたバプテスマのヨハネについてのコメントは(6-8節)、その背景にバプテスマのヨハネとイエスの関係がキリスト教会でも整理されるべき問題として持ち上がっていたためなのだろう。ヨハネは明言する。イエスは「神」であるがバプテスマのヨハネは「人」である。イエスは「光そのもの」であって、バプテスマのヨハネは「光について証しする」ために来た。そしてヨハネはバプテスマのヨハネのことばを借りて、イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」である、イエスは神であると同時に、人間のための生け贄そのものである、と結論する。

18節「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」神の子キリストは、父といつも一緒であるから、神については何でも知らないことはない。そのキリストに耳を傾けるならば、神がわかるだろう。私達は、神とはどういうものかとあれやこれやと想像をたくましくすることがあるが、そんなことでは神はわからない。むしろ、神を知ろうとするならば、イエスに注目し、イエスを読まなくてはならない。

ヨハネは、イエスの公的宣教の最初の一週間を細かに描く。そして最初の弟子たちが招かれた様子を描いている。大切なのは、彼らは多くの知識欲を満たしてくれる人物に出会ったというよりも、まさに、メシヤ、自分たちが目的とする神ご自身の御心とご計画について十分語ってくれるお方に出会ったと確信したことだろう(41節)。ナタナエルも、イエスを神の子と呼んだ(49節)。イエスは、神を豊かに解き明かしておられる。イエスと接することによって、地に囚われていた人々は天へと引き上げられる。イエスによって、私たちは天の父の事を知るのである。そして神が、私たちのために何をしてくださったのか、否、してくださっているのかを知ることになる。イエスに目を向けるなら、神は高くに座しておられる方というよりも、私たちのために、ご自身を犠牲にし、私たちを回復させてくださった、救ってくださったということを知る。神と神がなさってくださったことを知る。そんな目的をもってイエスに注目していくことにしよう。

 

 

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