エゼキエル書15章

15章 ぶどうの木のたとえ(15:1-8)

おはようございます。今朝も、いのちの主である神にまず感謝し、神を尊ぶ、一日の始まりとしたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.火にくべられたぶどうの木

15章以降、比喩と直接的なメッセージが幾度か繰り返されることになります。15章は、ぶどうの木のたとえで、簡単に言えば、エルサレムは薪にする他、何の役にも立たないぶどうの木であるとし、その運命を語り、悲しむ内容となっています。

大切なことは、なぜこのようなたとえが出てくるのかです。というのも、先に「あなたがたは~と言っている、しかし、それは違う」という形で、当時の人々がよく口にしていた事柄が取り上げられて、神の言い分が語られてきましたが、こうしたたとえも、当時の人々がよく口にしていたものを取り上げているからです。当時のユダヤ人は、自分たちを森の木の中にあるどの木よりも優れたぶどうの木にたとえていました。つまり、ぶどうの木は他の木とは違って実を結ぶ価値あるものであって、イスラエルも諸国民の中では特別な民であるという意識を持っていたのです。しかし、神はそれを否定されます。

「あなたがたは、自分たちはぶどうの木であると言う。仮にそうだとして、その枝は柔らかく、一般的な木工ばかりか、壁に固定される掛け釘にすら役立たない(3節)。あるいは、燃料用の薪にはなるかもしれないが、一度火に投げ込まれた燃えさしの枝が何になろうか。両端が焼け付き、中央部分も焦げ付いてしまったら、全く使い物にならないではないか(4節)と言うわけです。

実際、エルサレムはBC597年、エホヤキンの時代に、侵略されて、火で黒こげにされています(5節)。完全な滅亡は免れたものの、もはや、再度火に投げ入れられて(6節)、完全に焼き尽くされる他何の役にも立たないものとなっていたのです(7節)。印象的なのは、イスラエルは、しばしば「なつめやしの木」や「杉」に例えられていますが(詩篇92:12)、神の目にはもはや「役に立たないぶどうの枝」、しかも「一度火に突っ込まれた燃えさしの枝」と映っていることです。けれども、イスラエルはその自覚を持つことができないでいます。今自分たちが、始末されようとしているボロボロの現状に気づくこともできないでいる、霊的な鈍さがあるのです。確かにそれはBC586年の滅亡を待つ他のない国でした。

2.不誠実なイスラエル

ただなぜそうなってしまったのか。それは「彼らがわたしの信頼を裏切った」(8節)からであると言います。つまり神の期待に反した、ということでしょう。ただヘブル語の原語では、マアルー・マアル、同じマアルという語根を持つ動詞と名詞が重ねられ、マアルは、不誠実であることを意味しています。彼らはわたしに誠実ではなかった、約束を守らなかった、浮気者であった、ということです。裏切ったという行為よりも、不誠実であり続けた状態に、私は関心を向けさせられるところがありました。イスラエルは神と契約を交わした民なのに、その約束にずっと忠実ではなかった、裏切り続けて来たのです。どのようにして、やはり偶像礼拝というべきもののためでしょう。

神ならざるものを神として崇め、信頼していく。結果まことの神を退けていく。人間の心にはどうしてもこのような罪性があるものです。しかし人生の時も残り少なくなる段階にあって思うことは、やはり、人は神にお会いする備えをせねばならぬということでしょう。確かに朝毎に静まり考えることは、人は裸身であり、何も持たぬ者であるということです。すべては、神の恵みとして与えられ、神に尊いいのちを与えられて生きている、ということでしょう。その神を何よりも大事に思い、神に感謝して一日を始めるのでなければ、不誠実極まりないことは言うまでもありません。お金でも、人でもなく、まずいのちの主である神に心からの賛美をもって、一日を始める者でありましょう。

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