エゼキエル書16章

16章 不真実な女のたとえ(16:1-63)

おはようございます。すべては「生きて!」と叫ぶ神の愛の救いから始まった、と言うべきでしょう。私たちの人生は、尊いものであり、神の祝福は尽きないと信じましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.イスラエルの歴史を象徴的に語るエピソード

聖書の中でも最も長いたとえです。表面的には、ある女児の一生を語るものですが、そこに出エジプトから、王国の設立、分裂、バビロン捕囚に至るまでの、主とイスラエルの歴史的関係が実に巧みに象徴的に語られています。

「あなたの父はアモリ人、あなたの母はヒッタイト人であった」(3節)。エルサレムの先祖は、カルデヤのウルから渡ってきたアブラハムに遡り、彼はヘブル人(「渡って来た者」の意味)と呼ばれていました。しかしアモリ人とヒッタイト人はカナンの地にもともと住んでいた先住民族です。つまり神は、イスラエルが民族的というよりも道徳的にこれら先住民族と同じようなものだ、と言っているのです。本来イスラエル人が異教徒と忌み嫌った人々と同じであったにも関わらず、神の一方的なあわれみによって特別な神の民になったに過ぎないことを語ろうとしているのです。

女児の誕生と遺棄のたとえ(4節)は、実に心痛むたとえです。当時、助産師は子どものへその緒が切られるとすぐに、その全身に塩と水と油を塗り、七日間布できつく巻いたと言います。その後、子どもを洗いきよめ、また子どもを布で包み、40日目にほどくのが習慣でした。しかし古代において、女児の出産は余り喜ばれず、しばしば死ぬまで放置される子もいました。エジプトの奴隷であったエルサレムはまさにそのような子であった、と言うわけです。彼らは激しく虐待され、産み落とされたまま血の中でもがき、いのち尽きようとしていた子と同じでした。そんなエルサレムを神は拾い上げ「生きて!お願いだから」と叫び、塩と水と油を塗り、体を温め布に巻き、これを蘇生させたのです(4-7節)。

それから幾年も経て、今度は、旅人にたとえられた神が、成長した女児のもとを訪れます(8節)。その子は、結婚できる年齢になっていました。しかし、相変わらず愛情を受けることのない見捨てられた者でした。そこで神は、この子を引き取り、自分の妻にし、ありとあらゆるもので祝福しようと決意するのです。シナイ契約、ダビデ契約が意図されているのでしょう。確かに彼女は幸せになり、その評判は世界中に広まりました。世界に名を馳せたソロモン王時代を思い浮かべさせられます(1列王4:34)。しかしソロモン王以降、常に主を前に置き(詩篇16:8)、遜って歩んだ(詩篇71:6)ダビデ王のような者は現れず、歴代の王たちはエジプトやアッシリヤ、そしてバビロンに媚びを売り、中東での勢力を維持しようとしました。しかし愛のない恋人たちは、利用するだけ利用して、丸裸にして捨て去るのです。エルサレム崩壊と捕囚が象徴的に語られています(15-43節)。

2.神の変わらぬ契約と愛

ここまではよく聞く類のお話でしょう。見捨てられている子を見て、心痛めてあわれむ人はいないわけではありません。また助けた子どもが、未だに不憫な状態にあれば、さらに助けの手を差し伸べ、誰もが羨む幸せ者とする力のある奇特な人もいることでしょう。しかしこのたとえ話の後半は、神を裏切り瀕死と恥辱の中にあるエルサレムを、神が赦して、再び結婚の契りを結び直すものです(63節)。大変な恩義を受けながらその恩を仇で返すような愚かなエルサレムに、怒りを燃やしながらも、やはりあわれみの心を動かし、最初の約束を変えずに愛し続ける神の姿が描かれているのです(53-63節)。ヨハネは黙示録において、「初めの愛から離れてしまった」エペソの教会に警告を発しましたが、その「初めの愛」とは実に「生きて!お願いだから」と叫びながら死に瀕した赤子を救った神の愛に他なりません。私たちの信仰の出発点はそこでした。神のその誠実で深い愛情を認め、ダビデのように主をしっかり前に据える歩みをさせていただきましょう。

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