エゼキエル書17章

17章 二羽の鷲のたとえ(17:1-24)

おはようございます。時代の動きを巧みなたとえで語る、エゼキエルに教えられるところです。今の時代の動きをやはり、聖書的に悟らされながら歩む必要もあるでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.二羽の鷲のたとえ

エゼキエルは、謎めいた二羽の大鷲について語ります。まず「色とりどりの豊かな羽毛の大鷲」はバビロンの王ネブカドネツァルをたとえています(3-6節)。彼は、強大な軍事力をもってユダ(レバノン)にやってきて、エルサレムの王朝(杉のこずえ)を支配しました。「その若枝の先」(4節)は、18歳で王位に付いたエホヤキン王のことで彼がバビロンへ捕らえ移されたことを語っています。「商業の地、商人の町」(4節)は、バビロンのことです。ついでに彼は「その地の種も取って」(5節)つまりエホヤキンのおじゼデキヤを「肥えた土地」(5節)であるエルサレムに傀儡政権として立てました(2列王24:10-17)。彼はエルサレムで栄えましたが、それはあくまでも「たけの低い、よくはびこるぶどうの木」(6節)つまり、限られた権力と影響力しか持たない存在でした。そして、いつでも「鷲の方に向き、鷲の下に根を張る」(6節)、つまりはバビロンに依存する政権であったわけです。

次にもう一つの豊かな羽毛を持つ鷲は、エジプトの王ファラオをたとえています(7-11節)。先のぶどうの木(ゼデキヤ)は、バビロンの保護のもと、エルサレムで十分に栄えていたにも関わらず、この鷲、つまりエジプトの方に根を這わせ、枝を向けていくのです(7、8節、2列王24:20)。ちゃんと水の豊かな良い地に植えられていたにも関わらず。

そこで、神は宣告します。支配国のバビロンの好意を受けながら、エジプトと関係を深め、自立存続しようとする努力は無駄である、と。神が、邪魔をするからです(9節)。

2.たとえの種明かし

エゼキエルは、11節からたとえの解き明かしをします。実際、BC597年の第二回捕囚の際に(3-4節)、バビロンの王ネブカドネツァルは、エルサレムに攻めてきて、エホヤキン王を初め、国家の指導者や技術者達を捕虜として連れ去りました(12節)。その際に「王族の一人」(13節)ゼデキヤが王とされました。ところが彼は、BC588年夏、エジプトのプサメティコス2世に使者を送り、バビロンの支配から自由になろうとしたのです。結果、エジプト軍が動き、バビロンはその年の1月から始めていたエルサレムの包囲を一時的に解除するのですが(2列王25:1)、すぐに戻ってきてBC587年1月エルサレムに猛攻をしかけ、これを陥落させました(17節)。8:1の日付(BC590年)と20:1の日付(それから11ヶ月後)からすれば、この預言は、おそらくBC590年頃、つまりエルサレムの崩壊前に語られたものでしょう。神は予め、自らの計画と意思を語り伝えたというわけです。

3.もう一つのたとえ

22節から、もう一つのたとえが加えられます。「高い杉のこずえ」(22節)は3節の「杉のこずえ」を受け、「柔らかい若枝の先」は4節の「若枝の先」を受けています。つまり先にはバビロンの王が「若枝の先」を摘み取り商業の地に植えましたが、今度は神が「柔らかい若枝の先」つまりエルサレムの残りの者を「高くてりっぱな山(シオンの山)」に植えるのです。するとその杉は「あらゆる種類の鳥が宿り、その枝の陰に住む(23節)」立派な木になると言うのです。それは、直接的にはバビロン捕囚の帰還について預言するものでしょう。バビロンによる征服という絶望的な預言が史実であればこそ、この22節以降、エルサレムの将来に起こる希望の預言も確かなものでした。大切なのは、すべて、私たちの身に起こることは、神から出た神の業であるという信仰です。物事に偶然はありません。ですから、順境にあっては、神を恐れ造られた者として謙虚に歩み、逆境にあっては神の介入を期待し前向きに歩む、主を前にした歩みをしたいものです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です