エゼキエル書42章

42章 祭司たちが使う建物と聖域

おはようございます。本日は、神殿本体の隣にある礼拝準備の部屋について、また鳥瞰図的に神殿の全域の構成が確認されます。聖なるものを聖とする仕組みに注意しましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神殿に付属する構造物

祭司たちが使う2つの建物について語られます。まず構造について、今日も、3Dアニメーションがあるので紹介しておきます(https://bit.ly/2SXFCl5)。内容は、明日の34章の部分まで含まれています。

まずエゼキエルは、神殿中央の祭壇のある内庭から北側の外庭に連れ戻されています(1節)。内庭から外庭に出る通路があり、そこに建物が作られているのです。それは、神殿本体側つまり聖域に面する建物と外庭に面する建物の二棟からなっています(8節)。本堂に面した棟の長さは百キュビト、外庭に面した棟の長さは50キュビト、それぞれの幅は50キュビト、その真中に幅10キュビトの通路があります。またいずれも三階建てになっていて上の階に行くほど、通路の分、部屋の幅も狭くなっています。北側だけではなく南側にも同じ建物が作られています。

次に建物の用途ですが、聖域に面する部屋は、「主に近づく祭司たちが最も聖なるささげ物を食する所」です。そこで、ささげられた穀物のささげ物、罪のきよめのささげ物、代償のためのささげ物の、祭司の分を食べるのです(13節)。また、そのささげものを保管し、祭司の装束を着替える場所として使われます(14節)。

大事なのは、神が毎週時と場を定めて教会の礼拝に招いてくださる、その神礼拝のための場所とは別の場所を区別して設けている、ということでしょう。毎週土曜日は聖日備え日という意識を持つものですが、物理的な場所にしても、礼拝とそれ以外の場を区別するという意識、本当に尊いものを尊いものとする、神の偉大さを思えば、そうなのです。日本の住宅事情を思えば、そんな贅沢をと思うこともあるかもしれませんが、彼らは、その完成を目指したと考えるとよいのかもしれません。

2.聖なる場所

さて神殿内部の測定が終わると、15節、エゼキエルは再び東向きの門(正門)に連れ戻され、そこから外庭の外に出ています。そして今度は、神殿全域の規模が測定されるのをどうやら高所から鳥瞰しています。「東側を測ると、測り竿で五百竿」とあります。1竿は、6キュビト(40:5)、1キュビト52センチですから、約1.5キロメートルとなります。しかし、大切なポイントは、長さ、大きさ云々ではなく、ある尺度をもって区切られた聖域があったと理解することでしょう。聖なるものと俗なるものとが区別されているところです。確かに、この神殿が、捕囚期後に再建される神殿というのではなく、ヨハネ黙示録に描かれる、新天新地の象徴に通じるものであるとするならば、その区別の意義は重要です。ヨハネは、天の都の寸法を測り、それが、一万二千スタディオンであった、と言います。一スタディオン約185メートルとされますから、約2220キロ、日本列島がすっぽり入るぐらいの大きさです。はて、そこに、入れる人はわずかと考えるなら、それもわかりますが、十字架の恵みの大きさを考えると、わずかでもないはず、やはり、聖と俗を区別する程度の象徴的な表現と理解すべきでしょう。

聖なるものを聖とし、そこで礼拝をささげるという意識。コロナ禍でいささか物議を醸しだしているのは、便利なようで、テレビ感覚になってしまうオンライン礼拝。教会のデジタル化が進まざるを得ない状況の中で、その態度、心、精神はしっかりぶれないようにしたいものです。ベースの信頼関係抜きに、オンラインの牧会、ケアもありません。神の聖域に招かれていることを覚えて、聖日備え日を意識し、聖日に備えたいものです。

“エゼキエル書42章” への1件の返信

  1. 本日もありがとうございます。

    超絶的な壮大さ、きよさを感じます。
    かつて新居(超絶的に狭かった)の部屋と家具の寸法を喜び勇んで図り廻って新生活に備えたことを思いだして、昨日コメントに書きました。
    卑近な経験とは比べようもない(←当たり前ですが)事柄が預言されていることを、本日改めて学びました。
    アニメーションは本当に助けになります。
    感謝して見ています。

    S.A.

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