エゼキエル書47章

47章 いのちの水の川と新しい相続地

おはようございます。本章の鍵となることばは、「水」と相続地です。まことのいのちである神に対する信仰と、その信仰による相続の祝福があることを覚えたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.命の水の川

47- 48章は、新しい神殿を中心としたイスラエルの相続地について語っています。重要なのは、神殿の敷居の下から東の方へと流れ出るいのちの水(前半)と、相続地の境界です(後半)。まず水は、どんどん水量が増し(3-5節)、アラバに下り、死海に入ります(8節)。アラバは、ヨルダン川が死海に入る地域を指していますが、本来この地域は、雨期を除いてほとんど水利がなく、乾燥しており、死海そのものはいのちを宿すことのない塩の海です 。しかし、神殿から流れるその水は、死の海をいのちの海に変える力を持つのです。また、土地を豊かに潤し、実を結ばせています(12節)。それは、実際にはあり得ない状況を物語っています。となるとこの幻は、ヨハネが黙示録で語った幻に通じる内容があるようにも思われてきます。ヨハネは言いました。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた」(黙示録22:1、2)。こうしてエゼキエルの最後の幻は、微妙にヨハネの幻と重なり、象徴的に終末的状況を語っているかのようです。

しかし、当時のユダヤ人は、そのようには読まなかったでしょう。彼らは、これらを同じように象徴的に受け止めながら、捕囚帰還後のエルサレム回復の豊かなイメージを読み取ったはずです。つまり、エゼキエルは、捕囚先のバビロンにて、ユーフラテスの豊かな水の流れを見ながら、荒れ果て、乾いた都エルサレムの回復されたイメージを抱いているのです。というのも、その都は、全く新しい都ではなく、古い塩の海のイメージを引きずっています。死海は死海として残るわけですから、それを完全に新天新地のイメージに重ねることはできません。やがてエルサレムは回復される、豊かに、というのがこの箇所に込められたメッセージであり、読者は、いのちの源である神に心を向けさせられたのです。彼らが信じる神は、天地創造の神であり、死を命に、闇を光に変える神である、そこにエルサレム再建の希望がありました(ヨハネ7:37,38)。

2.土地の割り当て

次に後半の13節からは、回復された土地の割り当てが語られています。不思議です、バビロンにいたエゼキエルは、その版図をメソポタミアにまで伸ばすこともできたことでしょう。しかし神の都を示すその版図は、大ぶろしきに拡大されることもなく、オリジナルのイスラエルの区域に限定されていました。つまり、大雑把に言えば、北側は地中海(「大海」15節)沿いのツロから、ダマスコの南西あたりまで(15-17節)。そして南側は、死海の少し南から、エジプトの川の河口と地中海に至るライン(19節)。西側は地中海(20節)、東側はヨルダン川と死海(18節)です。この地をイスラエルの部族ごとに割り当てる、と言うのです。そして、そこに集められる住民に、また注目されます。そこには生粋のイスラエル人だけではなく、改宗した在留異国人も受け入れられています(22-23節)。もはや、新しいイスラエルは、血肉のイスラエルの枠を超えているのです。明らかにそれは捕囚期以前とは違う、他民族多文化的な国家のイメージを伝えています。もはや、肌の色、血筋の違い、ことばの違い、出身の違いは問題にされず、ただ、命の源である神を信じる信仰、そこに一致した者が集められるのです。大切なのは、ルツのように、唯一まことの神を、我が神、我が主として認めるかどうかでしょう(ルツ1:16)。そうすれば、「寄留者」と見なされる者もその地を相続できます(23節)。つまり、主を信じる者は皆疎外されることなく受け入れられ、自分の分を受ける祝福があるのです。

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