アモス書4章

4章 告発に込められた神の期待

おはようございます。強欲な生活と形式的な礼拝の問題が指摘されます。神は私たちの生活と遠くかけ離れたお方ではありません。神が共におられることを覚えて歩みたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.強欲・豪奢な生活

イスラエルとその周辺諸国へ向けられた裁きのことばは、ここでさらに具体的に踏み込んだことを語っています。1節、「このことばを聞け、サマリヤの山にいるバシャンの雌牛ども」(1節)北イスラエルの首都サマリヤに住む金持ちの女たちにアモスは呼びかけました。当時バシャンは、肥沃な地で、色艶のよい、肥えた牛は有名でした(エゼキエル39:18)。女たちが、その雌牛にたとえられています。実に贅沢極まりない豪奢な生活を指しているのでしょう。その生活は、弱い者、貧しい者を犠牲にしてのことだと、告発します。彼女たちは、富に熱中し、自分たちの夫が搾取しようが、何を仕出かそうが全くお構いなしだったのです(1節)。「お前たちは「釣り針にかけて引き上げられる」(2節)。アッシリヤの捕囚の危機が差し迫っていることを警告しています。アッシリヤの兵士は、捕虜たちの口に鉤をかけて、引き立てて、自分たちの国に連れ帰ったと言います。恐ろしいことですが、神は、自己中心で強欲に生きる者たちを、裁かずにはいられないのです。

2.形式的・儀式的礼拝

次に神は、表向き宗教的なようでありながら、その実形式的に礼拝をしている民に警告を発します。「もう、むなしいささげ物を携えて来るな」(1:13)と語ったイザヤのように、アモスも同じことを指摘するのです。彼らは朝毎にいけにえをささげました。また、「三日ごとに十分の一を献げ」ました(4節)。つまり形は非常に熱心なようでありながら、実際はそうではないと言いたいのです。そこにあるのはただ自己満足的な礼拝で、生ける神との心通う礼拝はなかったのです。礼拝には流れがあり、一つ一つの所作に意味があります。それを考えることもなく、形式的になされる礼拝は皆そうだと言わなくてはなりません。

3.神の裁き

6節以降、繰り返される定型句、「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」(6、8、9、10、11)に注目しましょう。神は、彼らにその現実に気づき、悔い改めを促すために、飢饉(6節)、干ばつ(7-8節)、農産物の病害と蝗害(9節)、疫病と戦争(10節)、震災(11節)を興されました。7節、後の雨と呼ばれる収穫前の雨が降らずに干ばつになると、せっかく育った作物がだめになってしまいます。しかも神は、作為的にその現象を起こすと語られるのです。これほど明らかに神が介入しても、人々は頑なに悔い改めようとしませんでした。12節「イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」は、種々の解釈がありながらも、悔い改めの促しと取るべきでしょう。神は憐れみ深いお方です。アモスと同時時代のホセアのメッセージは、アモスが語るところと矛盾することはないはずです。他人はどうあれ、あなたは、神の前に悔い改める者として立て、ということでしょう。天地を支配なさり、天高くおられる神は、人の心に寄り添うお方でもあるのです(13節)。

“アモス書4章” への1件の返信

  1. 強欲な生活と形式的な礼拝、一行目のこの言葉で打ちのめされました。私のことです。

    10年足らず前、震災の時に、同じことを示されたのに。

    S.A.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です