マタイの福音書9章

マタイの福音書9章 罪を赦す権威

おはようございます。2021年1月18日、パスターまことの聖書通読一日一章です。継続は力なり。聖書を日々手に取り、心の糧とするなら、自然に養われてくるものがあるものです。今日もぜひ聖書を開きながら読んでください。今日はマタイの福音書9章からです。

1.罪を赦す権威

マタイは、8章において、イエスの権威がどのようなものかを語りました。それはユダヤ人のみならず、異邦人にも及ぶ、全人類に対するメシヤとしての権威、否それどころか、全被造物と霊の世界にも及ぶ、創造主としての権威であったのです。続いて、罪赦す救い主としての権威が語られます(9:1-8)。マタイはマルコと同じエピソードを取り上げていますが(マルコ2:1-12)明らかにその関心は、イエスの罪赦す権威にあり、中風の人が天井の穴からつり降ろされた場面は省略しています。また、ルカの同じエピソードを読み比べると(5:17-26)、イエスのしたことにクレームをつけた律法学者たちは、たまたまそこに居合わせたわけではないことがわかります。彼らは、イエスの噂を聞き付けて、調査するために、わざわざエルサレムから来ていたのです。確かに彼らが心の中で思ったように、人の罪を赦す権威は神にしかないものでしょう。ですから彼らは、イエスが神を冒涜している、と考えました。しかし、その考えは間違っていました。イエスは、はっきりその間違いをわからせるために6節「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることをあなたがたが知るために」と言ってこの奇蹟を興されています。イエスは、優れた教師でも預言者でもなく、まことの神であり、救い主であることを自ら宣言されたのです。

2.罪人を愛する神

9節から、場面はマタイの家に変わり、イエスとパリサイ人との対話が記録されます。マタイはカペナウムで通行税を徴収する取税人でした。彼はその仕事柄、異邦人と接触する機会も多かったので、宗教的には、汚れた人、罪人同様に見なされるところがありました。しかしイエスは、当時の宗教家の偏見を正そうとされます。イエスは旧約聖書ホセアの預言の言葉を取り上げ、信仰において大切なのは、宗教的儀式を守ること以上に、愛と哀れみの心を持つこと、そして神はまさに罪人を愛する神であることを明言されるのです。またヨハネの弟子たちにも、信仰は旬のものであることを語ります。それは機に適った営みです。延々と同じことを繰り返すにしても、神と心通う楽しさや新しい変化が生じるものでもあるのです。

3.神と心通わす人々

18節以降、次々と奇蹟が綴られます。会堂管理者の娘の奇跡、12年の間長血を患っていた女の癒し、二人の盲人に起こった奇蹟、悪霊につかれて口のきけない人の癒しです。マタイは、マルコのようにこれらを詳細に描こうとせず、イエスの権威を認めた彼らの信仰にフォーカスを当てています。18節、「娘は生き返ります」、21節「きっと直る」、28節「わたしにそれができると信じるのか」「はい、主よ」と、彼らが神と心を通わした瞬間を描いています。信仰は神のめぐみと力を味わうことが命です。形ではないのです。天地万物すべてにその権威を示すことのできるお方が、あなたと共にいるのです。体裁を整えるだけの信仰とはもうお別れいたしましょう。では今日も良き一日となるように祈ります。

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