ヨハネの福音書19章

ヨハネの福音書 19章 十字架の御業の完成
1.ピラトによる裁判(19:1-13)
 イエスは、ローマ式の裁判で裁かれ、死刑が確定しました。罪状は自分をユダヤ人の王であるとする、ローマ帝国への反逆罪です。ピラトは、これが、まともな訴えではないことに気づいていました。ですから、強盗のバラバを引き合いに出したり、イエスを鞭打ち、懲らしめたりして、イエスを釈放しようと努力しているのです。しかし、ユダヤ人たちは、これを受け入れようとはしませんでした。群衆はイエスを十字架につけろと叫び続けるのです。
ピラトは、イエスが「神の子」と呼ばれたことに恐れを抱いています。当時それは、ローマ皇帝が自分を指すのに使った呼び名でした。いったいこの人物は何者なのか?どこから来たのか?ピラトはユダヤ人に訴えられたイエスに、戸惑うのです。しかしついに、ピラトの心を定める声が上がりました。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています」(12節)。ピラトは現実に引き戻されたのです。この世のものではない国、真理などどうでもよいお話でした。そしてピラトは、ユダヤの宗教家の声に押される形で、イエスの有罪を認め、イエスを十字架に処すため、ユダヤ人に身柄を引き渡してしまいます。ピラトの思考停止、弱さは、私たちの現実とも言えるのでしょう。正義を貫くべき時に、それができない、そんな現実が人にはあります。神を認めず、この現実の中だけで物事を考えるならば、そうした弱さは避けられないことでしょう。
2.イエスの十字架刑(19:12-42)
こうしてイエスは、十字架につけられることになりましたが、イエス自身は、これによってすべてご自分の使命が達成されたことを知って「完了した」と言われ、天に召されました。神が人類にご計画しておられた救いの計画は完成したと言うわけです。新約聖書のヘブル人への手紙には、このイエスの十字架の意味が、ユダヤ人の文化を踏まえながら解説されています。簡単に言えば、日本人は罪は水に流すと考えますが、ユダヤ人は罪は血を流すことによって赦されると考えます。ですから、祭壇で犠牲動物を屠り、その血を流しささげる儀式を重んじたのです。そのような背景の中で、イエスが十字架上で流された血は、全人類のための一度限りの、最終的で完全な罪の赦しのためのいけにえであった、ということなのです。
人は、どんなに表向き立派に見えていても、その内面は、罪や欲望を抱えていることに間違いはありません。「私には罪はありません、私はよい人です」と言い切るような人は、平気で嘘をつく人でしょう。そしてそのような人がその罪を赦されずにして、死後天にいく希望を抱くなどもっての他です。実際、そのような人たちが天国に溢れたら、そこはもはや天国ではなく、この世の延長に過ぎないからです。誰がそのような死後の世界に希望を抱くことができるでしょうか。ですから、もしまことに聖く、祝福に満ちた死後の世界があるとしたら、人はその国に入るために、どこかで罪赦され、聖められて、相応しく整えられることが必要なのです。使徒パウロは言いました「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって、神の義となるためです」(2コリント5:21)。イエスの十字架は、人類の死後に希望を与えるものであり、それを信じることは神の国に入るための第一歩なのです。

最後に、今日の聖書クイズを一つ、当時の十字架刑で、受刑者の死を早めるために行われたものはどれでしょうか?①足を木槌で打ち砕く、②わき腹を槍で刺す、③酸ぶどう酒を飲ませる。昨日のクイズの答えは、③600人でした。今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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