ヨハネの福音書21章

●ヨハネの福音書21章 復活の主の召し
1.弟子たちの再召命(21:1-14)
ヨハネを始め、弟子たちがイエスに招かれるのは、これで三度目です。最初ヨハネは、自分の師バプテスマのヨハネに勧められてイエスについて行き、ガリラヤ伝道を共にしますが、しばらくして、また故郷に戻ったのでしょう。そんなヨハネをイエスが、再び自分の弟子として招く場面があります。それがちょうど、この21章の出来事と同じような内容になっています。彼らは夜通し漁をしたものの、魚が獲れずにたのです。そこにイエスが現れ、イエスに勧められるままに網を下ろしてみると、大漁となりました。驚いた彼らは、イエスに招かれるままに弟子となるという話です。なぜヨハネは、こんなスタートに戻るようなエピソードを最後に加えたのでしょう。この記事もヨハネ独特です。
この時、ペテロは復活のイエスと会いながらも「私は漁へ行く」と再び、自分の仕事に戻ろうとしていました。復活のような前代未聞の出来事を体験しながら、彼の心は約束の聖霊を待つ思いにも、主の宣教命令に従う心にも向かっていかなかったのです。なぜか。それは、イエスが復活したという事実があっても、自分たちの師は、やはり十字架で死んだ感じる事実の方がより現実的だったからではないでしょうか。復活は驚くべきことでしたが、イエスは、現れたかと思えば消える、結局は消えてしまう幻想の世界に取り残された気持ちになっていたからかもしれません。そんな白昼夢のような生活を続けていて、何になるだろうか。目を覚まして漁に行くか、というわけです。そこにイエスが現れ、もう一度振出に戻るわけです。そして、今度のスタートは、目には見えないけれども、確かにイエスが共におられることを信頼する、完全に信仰によるスタートであることを彼らは覚悟させられるわけです。イエスのおことばに従うなら、空ではない、確かに手ごたえのある網を引き揚げる、彼らは信仰による自立を促されたと言えるでしょう。
2.ペテロとイエス(21:16-25)
ペテロとイエスの対話が記録されます。それは、苦難にってイエスに対する信頼を失いかけていた初代の弟子たちに聞かせたいものであったのではないでしょうか。この対話のポイントは、「私の羊を飼いなさい」という使命をペテロに与えられたイエスが、その働きのベースにイエスを「愛する」という動機を三度確認されたことです。どの弟子よりも主に身をささげていると豪語しながら、主を否定してしまったペテロにとって、それは、最も急所を突いた問いでした。イエスの働きを担うにあたり、何よりも大事なことは、能力ではなく、イエスに対する愛なのです。この先どうなるかもわからない、しかしイエスを真実に愛する思いがあるなら、その思いを持って私について来なさいということでしょう。たとえそれが不完全であっても。神は私たちの思いを認め、大事にしてくださるお方なのです。それは神にとっても賭けでしょう。その神の懐の深さを思えばこそ、私たちの腹も決まるのです。21節、主に従うというのは、自己実現の代わりになるものではありません。あるいは党派心、競争によるもの、つまり他人の働きに比較してどれほど優る働きができるか、ということでもありません。ただ主が、あなただけのオンリーワンの働きに召しておられることです。ですから、その職務に忠実であるなら、神に対する私たちの愛、そして主は常に真実であるという私たちの信仰が証しされることになるのです。
最後に、今日の聖書クイズを一つ、新約聖書が書かれたギリシア語には、愛と訳されることばが三つあります。その内、与え尽くす神の愛を意味することばはどれでしょうか。①アガペー、②フィレオー、③エロース、昨日のクイズの答えは、①4回目でした。(11:16、14:5、20:25、20:28)今日の答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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