使徒の働き8章

ステパノの殉教をきっかけに、福音はユダヤの地理的な境界を越えて、北方のサマリヤ、さらにダマスコにまで、拡大していった。1-7章は、エルサレム教会の設立について語っている。2年間にわたり、信者は、エルサレムでの伝道に専心した。8章は、彼らの働きが新しい転機を迎えたことを示している。ユダヤとサマリヤへの宣教の拡大であるが(使徒1:8)、それは迫害が引き金となるものであった。また迫害者サウロが簡単に紹介される。これからの宣教の拡大の牽引車となった人物である。彼は、キリスト者に対する「脅かしと殺害の意に燃えて」いる残忍な男として登場する。しかしそれは、キリスト者よりの見方であって、彼には彼なりの論理があった。泥棒には泥棒の論理があると言うように。実際ユダヤ人の律法によれば、「十字架にかけられたものは誰であれ呪われた者である」(民数21:23)とある。彼からすれば、どうして、そのような人物を約束のメシヤ救い主として信じることができるだろうかというわけであるし、そんな人物を信奉する集団は、危険極まりないことだったのである。パウロは、常軌を逸した脅迫と殺害の意に燃え、血も涙もない冷酷さを露わにしながら、会堂から会堂へ、家から家へと飛び歩き、男女かまわず引きずり出し、牢にぶち込み処罰した。これによってエルサレムの教会はずたずたに分断され、キリスト者は四散していく。キリスト者にとっては、明らかに試練の時ではあったが、同時に、それはキリスト教を世界宗教へと推し進めていくきっかけとなった。神のみこころはわかりにくいが、神のなさることは常に最善である。
さて、キリスト教が新しい地域、サマリアに進展するとすぐに福音に応答する人々が現れた。神の福音は、後にパウロが語るように隔ての壁を打ち壊す福音である。ユダヤ人はサマリア人を心底憎んでおり、彼らの信仰を異端的と見ていた。しかし、敵対していた二つの民族は、キリストにあって一つにされていくのである。聖霊がペテロとヨハネによって彼らに下ったというのは、その象徴的な出来事である。サマリア人もまた正式に聖霊のバプテスマによって、キリストを主とする神の民とされたのである。なお、そういう事情だから、時々、水のバプテスマと聖霊のバプテスマを区別し、聖霊のバプテスマを新たに受けることを主張する人がいるが、この箇所は、そんな教理を述べているわけではないことに注意すべきだろう。
また魔術師シモンのエピソードが語られる。彼は、価値あるものへの嗅覚の鋭い人間であった。彼は、使徒たちの驚くべき業に目を見張りながら、キリスト教の力強さの秘訣が聖霊にあるその本質を悟った人物である。しかも彼は、それを単に受けるのではなく、与える賜物を得たいと願うのである。彼は、それを何とか手に入れようとしお金で取引しようとする。しかし聖霊は、主の恵みの賜物である。イエスの十字架の元に遜った者に対して恵みとして与えられるものであり、その恵みのもたらす祝福は計り知れない。
5節からは、ユダヤにおけるピリポの宣教が語られる。イエスが語った「エルサレムから始まり、ユダヤとサマリアの全土(使徒1:8)」という福音の進展を確認するエピソードである。ピリポは、もともと使徒6:5においてやもめの給食係りとして教会で仕えていたが、その後、今風に言えば伝道者として用いられるようになった。おそらくピリポは、教会の中の仕事を忠実にこなすうちに、聖書の中心的なメッセージをしっかりと自分のものにしていったのだろう。霊的に整えられ、備えられたピリポは、今度は宣教者として用いられるようになったのである。
さて宦官は、多くの場合去勢されており、性的な能力を失っていた。その高官の一人、エチオピアの女王カンダケの財産を全部管理していた人物が礼拝のために、エチオピアからエルサレムまで馬車を走らせていたという。当時のエチオピアは、現在のスーダンにあたる地域を指していた。この人物は、そこから神様を求め、エルサレムまで足を運んでいた。実に熱心な求道者である。神様は、その一人の熱意を見過ごされなかった。そして、高官が救いの道を理解できるようにピリポを遣わされる。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とパウロは言ったが、実に導く人がなければ、信仰の道は理解され難い。私たちが明確に、イザヤ53章を初め、イエスの十字架が私たちの罪の赦しのためであることを伝えずにして、救いは起こらない。神は、エチオピアの高官を、私たちの回りに必ず用意してくださっている。ピリポは、御霊の導きに絶えず従ったという。私たちが絶えず祈りつつ。神の前に備えをなすときに、神は、私たちに語るべき人を備えて下さる。自らを整え、神の恵みを語らせていただく者となりたいものだ。また、ピリポの宣教にいくつかの特徴があることを心にとどめておきたい。第一に、宣教はキリストが中心である(5節)。第二にピリポの宣教には、神の力が働いていた。人々の人生を変える力があった(10節)。第三に、ピリピの宣教には、喜びを感染させる力があった(8節)。真の確信は人に影響を与えずにはいられないのである。

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