使徒の働き20章

エペソでの騒動に区切りがつくと、パウロは、即座にマケドニヤへ向かって出発した。そこで何があったのかは何の記録もない。しかし、この旅行の際、コリントに滞在している間に、どうやらパウロはローマ人への手紙を執筆したと考えられている。つまりパウロはこの時、ローマを経てイスパニア(スペイン)に宣教をしたいと考えていたものの、その前にエルサレム教会の貧しい人々を支援する異邦人教会の献金を届けたいと考えていた(ローマ15章)。またこの時期にどうやら、イルリコへの伝道もなされていたのではないか、とも考えられている(ローマ15:19)。そして先に述べたように、コリントの問題解決のための苦労もあった。帰路トロアスに集結した同行者のリスト(4節)や、ローマ書16章の挨拶を見ると、宣教の成果は大いにあったと考えて間違いはない。
さてトロアスで開かれた集会のエピソードが記録される。彼らは、週の初めの日にパンを裂くために集まった。つまり、この時点で初代教会の礼拝は日曜日に開かれていた。ルカは、どうやら、ローマ式で日の出から一日を数え始めているので(3:1)この集会は、日曜日の夜にもたれ、月曜日の朝に出発したと考えられる。そこで、この集会中のこと、青年ユテコが眠りこけて、三階から下に落ちて死んでしまったが、パウロの快方によって蘇生した。ルカがこのエピソードを記録した理由は今一つはっきりしない。ただ、彼らの宣教の働きに、神の守りがあったことを示したかったのだろう。
ともあれパウロは、海路を通ってエルサレムへと急いだ。途中、すでに騒乱を引き起こしたエペソに立ち寄ることを避けたのだろう、エペソの長老を招いて集会を開いている。これはエペソの長老たちに対する告別説教となり、その中に彼の奉仕者精神がよく表されている。つまりどのように神に仕えるか、その姿勢、態度、精神が語られる。まずパウロはよく働いたが、しっかり説明のできる働き方をした(18節)。そして、19節、「謙遜の限りを尽くし」と、変な思い上がりを指摘されるような働きはしなかった。さらに「涙をもって」思いやりを持って宣教をした。実に、家族的な愛の関りを一人ひとりにした、ということだろう。さらにパウロは、忍耐と不屈の精神によってユダヤ人の迫害と戦った。彼は、困難の中で不信仰を指摘されるような働きはしなかった。大切な点であろう。福音宣教は、言うほどたやすくはない。人は期待するほど応えて協力してはくれないものである。また、立ちはだかる障壁は思いがけずに大きかったりする。しかしそれでも、あきらめず主に仕え続けられるかどうかがである。私たちは、自分たちの計画を成し遂げようとしているのではない。ただ主にお仕えしているのである。だから、「益になることは、少しもためらわず知らせた」(20節)という。すべては、主に与えられたものであり、主の栄光が現れるように、なされるべきものだからである。そして、人々を向かわせるべき点は「主イエスに対する信仰」である。ここをはっきりと主張し、ここに向かわせることである。
この説教が告別説教と言われるのは、パウロが、はっきりと別離を予感し、語っているためであろう。しかし、それは単に感情的な予感ではなく、聖霊に教えられたことである。パウロは、「心を縛られ、エルサレムに上る途中である」(22節)と語る。ペテロも同じ経験へと導かれている(ヨハネ21:18)。自分の歩きたいところを歩くのではなく、行きたくないところを歩かされる、ことがある。
しかし、いつも神様を後回しにしているようでは、こういうことはわからない。やはり神さまに身をささげ、神と一つ心になろうとする人生を歩んでこそ、こういうこともわかってくる。そして、それは、「なわめと苦しみが私を待っている」と思わされることであっても、そこに、主と共に生きる幸せがある。幸せであることと、苦しむこととは別である。苦しみがなければ幸せとは限らない。しかし、苦しみがあっても幸せでいられるものなのだ。
パウロの最後のことばに学ぼう。28節からは、具体的な勧めであり、パウロはエペソ教会の長老たちに、いくつかの指示を出している。一つは、「自分自身と群れの全体に気を配る」ということ。それは、教会がいつでも、教えの風に吹きまわされる、個人の利益の搾取の場とされる危険があるからだ。自分と群れ、双方に気を配らなくてはならない。そして、目を覚まし、「みことば」に注目するように教える。聖書のことばが、一人ひとりを育成し、御国を継がせるように整える力となる。牧師の働きは、御言葉に一人ひとりをつなげて行くものである。自分自身にではない、御言葉に聴き、御言葉に従うように、一人ひとりを励ましていく働きである。そして、罪に注意するように警告する。どんな貪欲にも警戒しなさいと、パウロは別の箇所で述べているが、教会の指導的な立場に立つ者が心すべきことは、内面的な罪である。貪欲さがどんなによい働きをも駄目にしてしまう。むしろ、「受けるよりも与えるほうが幸いである」という精神に生きることが大切である。ただ日本の開拓伝道者は往々にして貪欲さや、むさぼり以上に、日々の生活に事欠き、生活を維持することにあくせくし易い。それが、信徒には貪欲であると勘違いされてしまうことがある。主にある忠実なしもべが、教会によって支えられていない現実があるのに、その内的動機を誤解され、その働きを正当に評価されることがないことは実に残念なことである。パウロは、「福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます」(1コリント9:14)と書いているが、信徒一人一人が、牧会者の働きを支える心を持って献げ、祈ることは言外に期待されることである。そして一方牧師は、たとえ教会がそのように未だ整えられる状況にないとしても、良い意味で「武士は食わねど高楊枝」とあるべきで、動揺せずに、必要を満たし養い育ててくださる神に委ね、貧しい中にあっても、何かを与える心を持つ、それが、牧師の体臭として感じられるほどでありたいものだ。そして「労苦し、弱い者を助ける」心をしっかり持ちたい。万事につけ、すべてのことにおいて、信仰の真実なる徒となることを、心がけたいものである。

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