レビ記20章

20章 主の掟と定め(異文化との分離)
1.偶像崇拝に対する罰則(20:1-8)
モレク礼拝や種々の性的な事柄についての教えは、既に18章にて、また霊媒については19章に取り上げられていました。どうも、この20章は繰り返しのようにも思われます。しかし、よく読んでいくと、これらを戒めているのみならず、そこには厳しい罰則が付け加えられているのです。つまり単純な重複記事ではありません。20章は、18、19章で取り上げられた戒めについて、それが破られた場合に、どのような罰則があるのかを語るのです。
 モレクは、アモリ人の神で、子どもや幼児をささげ物とし、実際には生きたまま焼き殺す恐るべき儀式を行っていました。このような嘆かわしい事態は、石打に値すると言います。その刑を執行するのは「この国の人々」とありますが、それが具体的に何を意味しているのか。刑を執行する「立法上の議会」なのか、影響力を持った集団なのか、土着の住民なのか、種々言われていますが、よくわかっていません。ともあれ、このような人のいのちを粗末にする行為などもっての外、イスラエルから断ち切られなければならないというわけです(1-5節)。霊媒や口寄せも同じです(6-8、27節)。
これらは、古代のお話でありながら、決して、現代とは無関係とは言えないものです。1995年地下鉄サリン事件が起こった時に、やはり、日本人も宗教って何だろうと改めて考えたところがあると思います。それまでも、非社会的な宗教の活動は種々ありました。それらの宗教に惑わされ青年時代を失った人、あるいはそれらの非社会的な信仰教義のために、家庭をずたずたにされてしまった人について見聞きして、宗教に嫌な印象は持ち、関わりたくないと思っていた方々も多くおられるでしょう。私の場合は、改めて宗教って何だろうと考えさせられところがあり、いのちを粗末にする宗教、社会性を無視する宗教はあり得ないと思わされています。そして聖書を読むと、やはり、そのような部分は大事にしている、と私は思うのです。
2.性的な罪への罰則(20:9-27)
つまり、信仰を持ったら、やはり自分のみならず、家族が幸せになる、自分の周囲がよい影響を受けるということが大切なのであって、そのような意味では、常識感覚を大事にすること、そして家族に衝突や不和をもたらすようなものは、あらかじめ警戒するということは教えられなければならないでしょう。その一つとして親に対する態度、親をののしってはならない、もそうなのです。人はいつまでも子どもではなく、いずれ、両親の粗が見える大人になるものです。しかし、そこで、親をののしらない(9節)、やはりどんなに親に欠けがあるように見えても、親は子どもを育てることにおいて、それなりに苦労してきたことを認め、言いたいことを大人として伝えられるようになるというのは大切なことです。そのための人間的な成長でしょう。勉強が出来ても、人の痛みがわからないような子どもにはなって欲しくないというのと同じです。近親姦については、家族間に亀裂をもたらす最たるもの、自制すべきことでしょう。同性との性交、獣姦も、当時は、周辺に住んでいる諸民族の中には、よく見聞きすることであったのでしょうが、神に恩義を感じ、神に従う民にとって真似ることではない、共同体に持ち込んではならないものとされます(10-21)。確かに、どんな価値も尊重されなくてはなりませんが、神の民としての価値もまた大事にされ、守られなければなりませんでした。イスラエルの民は、約束の地において、神の民として、これまで親しんだエジプトでも、これからお近づきになるパレスチナでもない、まったく新しい価値、倫理、信仰に生きることが期待されていました。神は言います。26節、「わたしは、あなたがたをわたしのものにしようと、諸民族の中から選り分けたのである」(26節)。また言います。「わたしはあなたがたを聖なる者とする主である」(8節)と。聖いまことの神との関係に生きていることを証しする、それはただ真面目に生きるというのとは違います。アーミッシュのような一種閉ざされた信仰共同体を作りあげるというのとも違います。結果そのように見える、あるいは見られることがあるかもしれまえん。しかし、大事なことは、神の哀れみに触れた、神の愛に触れた、救い出してもらった、その恩義に感じて生きるということです。キリスト教信仰をもって生きるというのは、単に倫理道徳的な人生を生きることではなく、神がおられるという現実に生きる、神が私たちを愛し、私たちを整え、また、その歩みは喜びと楽しみに満ちている事実を証しするということでもあるのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ひげを大事にし、特別な機会以外は剃らない文化を持っているのは、イスラエル、エジプトどちらでしょうか?答えは、イスラエルでした。イスラエルを初め西方セム系民族の男性にとって、ひげは、男性美のしるしであり(詩篇133:2)、ひげをそる場合は、激しい嘆きや喪に服する時(イザヤ15:2)、らい病からきよめられた時(レビ14:9)など特別な機会であった。しかしエジプトの習慣は反対で、ヨセフはひげをそってからパロの前に出て礼節を尽しています(創世41:14)。
では、今日の聖書クイズを一つ。ソロモンは、モレクの神殿をエルサレムに建てましたが、それはどこに建てられたでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

<天草さんのフォローアップ>
パスターまことの聖書通読一日一章をフォローし、さらに掘り下げにチャレンジしている、天草さんのサイトはこちら⇒「天草幸四郎」http://progress-to.jugem.jp/
私の願いは、聖書が国民の愛読書になることです!

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