レビ記25章

25章 ヨベルの年,買い戻しの制度
1.ヨベルの年
 聖書には七の生活リズムがあります。一週間毎の安息日に加えて、七ヶ月目の宥めの日、そして七年毎の安息年という定めがあります。安息年は、六年間土地を耕し、七年目には完全に休耕するものです。この年、貧しい者はその土地に自然に生えたものを自由に食べてもよく、イスラエルの奴隷は解放され、負債はすべて帳消しにされました。それは、土地が人のものではなく、「神のもの」であることを教えることを目的とするものでした。
 さらに安息年を七度重ねた49年目の翌年、つまり50年目はヨベルの年と呼ばれる特別な年とされました。ヨベルは「雄羊の角」という意味で、この年の第七月の10日に角笛を鳴り響かせるところからその名がつけられたのです。そしてその日が定められたのは、かつてエジプトにおいて奴隷であった神の民が、神の奇跡的な介入によりその抑圧から解放されたことを思い起こすためでした。神のあわれみと助けによってエジプトを脱出した彼らは、神と契約を結んで神の民となり、他国の者とは区別されるようになりました。そして彼らは、自分たちが苦しめられた物質主義的な生き方とは違う、神の民としての生き方を歩むようにされたのです。ですから、五十年に一度、神に定められたこのヨベルの年に、自らの過去を振り返り、同じように束縛されている者たちを解放することで、彼らは、人はパンのみによって生きるのではなく、神のあわれみをもって生きるように教えられたのです。奴隷の解放、財産の処分、土地の休閑といった全ての行為は、その考えを実践するものであり、さらに彼らはこの期間に、簡素な生活を営み、かつて荒野という環境の厳しさを生き延びた時に必要とされた肉体と精神との原則を思い起こさせられたのです。もう少しヨベルの年について説明しましょう。
(1)安息
まず、この年には、畑を休ませなくてはなりませんでした。それは、農耕の観点からすれば土地を休ませる懸命な方策であり、人にとっても喜ばしい余暇をもたらします。しかしながら、安息年を七度重ねた49年目も、畑を休ませますから、ヨベルの年になると2年連続の安息となります。そんなに土地を休ませて大丈夫か、ということに対して、神は、「六年目にあなたがたのために、わたしの祝福を命じ、三年分の収穫を生じさせる」(25:21)と約束するのです。大事なことは、祝福の鍵を握るのは神であることを思い起こすことでしょう。安息を守る時間を惜しんで、仕事や勉学に精を出しても、思ったほどの成果が得られないことはあるものです。人生思うようにならない、計画通りにはいかない、それは、万物の支配者である神を勘定に入れないからです。イエスは、神の国とその義とを第一に求めるように教えられました(マタイ6:33)。神のみこころを勘定に入れない人生設計に祝福はありません。神が休みなさいと言われた時には素直に休み、すべてが神にかかっているかのように生きていくところに、祝福があるのです。
(2)土地の返却
また土地は神のものであり、人はその借地人です。人はすべて神に与えられているに過ぎません。やはり、神のものを正しく用いる心を持たなくてはなりません。しかしそれができない。実際当時のイスラエルの民も、この土地の返却はしませんでした(イザヤ5:8、アモス2:6)。神のみこころを勘定に入れる、教えを実行する、そんな容易いことではありません。しかしそれが人間の罪性というべきでしょう。
(3)奴隷の解放
 さらにヨベルの年、奴隷が解放されました。つまり、それは土地も人も神に属するものであって、特定の人のものではない、人は、神の財産の善良な管理人に過ぎないことを思い起こす年でした。天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言われますが、人間は生まれながらに平等であって、貴賤・上下の差別はありません。ましてその差別により搾取が行われることがあってはなりません。ですからもしこの年が実際に行われるなら、利益追求一辺倒の社会システムがリセットされ、原状が回復し、富の偏在の悪を是正する効果をもたらしたことに間違いはありません。
北米のフィラデルフィヤにあるインデペンデンス・ホールには、合衆国独立の時に鳴らした自由の鐘がありますが、その鐘には、このレビ記25章10節からの引用「国中のすべての住民に解放を宣言する」が刻み込まれています。それは、イザヤの預言(イザヤ61:1-3)を引用して「きょう、この聖書のことばが実現しました」(ルカ4:21)とおっしゃったイエスの言葉に対する信仰に基づくものでしょう。ヨベルの年は、いまだかつて人類の歴史において実施されたことがなかったとしても、その精神は絶えず、神の摂理的な出来事に乗じて、時代を変える動きをもたらしてきたのだと思います。今回のコロナ禍も、利益追求一辺倒の社会システムを一時中断する動きであったことは確かです。そうであれば、この時代、単純に元の経済システムの復興を願うのではなく、神が与えられた恵みの機会として、真に人間性が回復され、大事にされる社会システムの構築をこそ考えたいものです。キリスト者は、このヨベルの年の思想に生きる者です。これが人類の求めるべき本当のゴールであることを心に刻みその方向に向かって進む者です。では今日もよき一日であるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。次の組み合わせの内間違っているものはどれでしょうか?①過ぎ越しの祭り、初穂の祭り、②五旬節、七週の祭り、③仮庵の祭り、種を入れないパンの祭り。答えは、③仮庵の祭り、種を入れないパンの祭りでした。正しくは、仮庵の祭りは、別名収穫祭というものです。種を入れないパンの祭りは、過ぎ越しの祭り、初穂の祭りの別称です。
では、今日の聖書クイズを一つ。人がヨベルの年を実施するなら、神は、その前に何年分の収穫があると約束しておられるでしょうか。答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

<天草さんのフォローアップ>
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