ローマ人への手紙10章

パウロは、ユダヤ人の問題を続けて取り上げている。彼らは熱心だ。しかし熱心だけどわかっていない、という。至って真面目に神を信じているようでありながら、実際には、神の思いを無視している。事実、彼らは、「自分自身の義を建てようとして、神の義に従わない」(3節)。自分がいかに律法に従って正しい生き方をしているかを示すことに熱心な自己満足的な信仰で、神が私たちとの関係の回復のために与えてくださった、イエスの十字架の義を受け入れようとしない(3節)。彼らが大事にしている律法こそ、十字架のキリストを指し示すものである。そして、キリストの救いはすべての人に与えられるものである(4節)。

もし、律法によって義と認められることを求めるならば、ことごとくその神の戒めを実行しなければならない(5節)。しかしそれは実際に不可能である。6、7節は、当時格言化した申命記30:11-14の自由な引用であるが、これは、キリストにこそ注目するように促すことばとなっている。つまり、あなたは心の中で、「だれが天に上るのか」と言ってはいけない。キリストを求めて誰かが天に上る必要はない。すでにキリストは天から下って来て、神の恵みを十分示され、今なおその恵みは宣教者によって明らかにされている。また「だれが(地の)深み(奥底)に下るのか」と言ってはいけない。キリストはすでに復活して、あなたとともにおられるではないか。つまり、キリストはあなたのただ中におられる。大切なのは、あなたがそのキリストを、信仰をもって受け入れるか否かにあるのだ、というわけだ。

パウロの旧約引用が連続する。11節は、イザヤ28:16であり、13節は、ヨエル2:32からの引用であるが、私たちの救いは、ただ神が示された方法である、イエスを信じる道に従うことである。神が備えられたキリストを信じ、キリストを主と告白する、それが基本であり、すべてである、というわけだ。そこにユダヤ人と非ユダヤ人の区別はない(12節)。

後半は、そのキリストを語ることなくして、信じる者も起こりえない、ことを語る。確かに人は、聞いたことのないものを信じることはできない。宣教師がいなければ聞くこともできない(14節)。神が方法を示されるのなら、神が遣わす宣教師がいない限り、それはわからない(15節)。信仰は聞くことから始まるのだ。しかし、パウロはここでユダヤ人の問題について立ち戻る。彼らは聞かなかったのか?(18節)。いや彼らは聞いたのだ、と。イザヤ53:1を引用して、当然語られて信じるべきはずのものを誰も信じなかったことを強調する。詩編19:4を引用しながら、それは全地に明らかにされたことであるのに、誰も受け入れようとしなかった、彼らは、神から遣わされた者たちのメッセージを聞こうとはしなかった。という。さらに、19節、彼らは理解できなかったのか?それも違う。彼らは、理解したのだ。その証拠に非ユダヤ人がそのメッセージを受け入れた時に、彼らは怒り、妬み、躓いたではないか。ただそれは、ユダヤ人以外にその救いの恵みが分かち合われる預言が成就するためであった、という(19-21節)。まさに「民でないものたち」が救われ、民であるユダヤ人が味わうはずの神の恵みを味わうようになった。ユダヤ人は、その事実に怒ったのである。

イエスの十字架は非常に特異な出来事である。人類の歴史において十字架は、消し去ることのできない出来事として記録されている。また、罪の赦しを与えるその意味も明らかにされている。それは大いに宣教されている。大切なのは、神が示されたその罪の赦しと恵みを得る方法に、注意深さを持って近づき、受け入れるかどうかである。受け入れる者は、神の恵みを得るのである。

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